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東南アジアの伝統スポーツ セパタクローに懸ける青春 吹田市の田尻謙児さん 《8面》

2007年01月20日

東南アジアの伝統スポーツ
セパタクローに懸ける青春
世界に通用する日まで
糖尿病と闘いながら

東南アジアで生まれ、長い歴史を持つスポーツ「セパタクロー」に魅せられた男性がいます。吹田市に住む田尻謙児さん(34)。
セパタクローが日本に紹介されて間もないころに始めて以来、セパタクロー一筋。国内大会や世界選手権でも多くの成績を残し、昨年12月、カタール・ドーハで開かれたアジア大会でも日本代表チームの一員に。地元の「吹田セパタクロークラブ」(SUITAKRAW・スイタクロー)の代表を務めるなど、普及や後進の育成にも力を入れています。
「ちょうど、日本の蹴鞠(けまり)のような感じでしょうか」。セパタクローについて田尻さんはそう説明します。しかし実際の競技風景は、王朝貴族の優雅さとはまるで別世界です。
アタックではボールの速さは時速140`以上。ネット際のせめぎ合いでは、敵味方が足を上げて宙に舞い、華やかで激しいスポーツです。

失意のどん底から

田尻さんは1972年生まれ。もともとサッカーが大好きで、吹田市立高野台中学校から府内の強豪校の一つだった摂津高校に進学しました。全国大会出場を目標に練習に明け暮れた3年間。しかし高校時代最後の大会で敗退し、全国大会への夢は砕けました。
進路も定まらず、失意のどん底に沈んでいたある日、たまたま見ていたテレビ番組で「東南アジア生まれのすごいスポーツ」と紹介されていたのがセパタクロー。
「これや!」衝撃でした。「ボールのコントロールや柔軟性など、サッカーで磨いてきた自分のプレースタイルを生かせると思った」と田尻さんは言います。
ボールを入手し、セパタクローができる大学を探したところ、クラブや同好会があったのは全国で2校だけ。その両校を受験し、千葉県の国際武道大学に合格しました。反対する家族や教師を「現役で受からなかったら、あきらめるから」と説得しての挑戦。91年のことでした。
大学入学早々から練習に没頭。当時、セパタクローの競技人口は100人程度だったといわれる中、1回生のとき全日本選手権で準優勝し、タイで開かれた世界選手権に日本代表として参加。そこで「世界の壁」を体験します。
「タイの選手たちは、僕たちにわざと負けたりして、ちゃんと相手をしてくれない。それくらい実力の差がありました」と田尻さん。「タイは何といっても本場。子どものころから遊びの中にセパタクローがあり、プロリーグもあります。一方で、日本にはコーチすらいない。世界選手権に出たことで、もっとこのスポーツに打ち込もうと思うようになりました」。
大学卒業後も関東に残り、選手生活を優先させるため、アルバイトをしながら練習や試合を続けました。年に2、3カ月、日本でオフシーズンとなる冬にタイやマレーシアへ渡り、技を磨いてきました。

体の変調に気付き

98年11月、タイで開かれたアジア大会から帰国後、健康の変調に気づきました。喉の渇き、トイレが近くなり、体のだるい日が続く……67`あった体重が58`にまで低下しました。糖尿病(I型糖尿病)と診断され、入院。
まだまだマイナーで生活の保障もないセパタクロー。田尻さんは「もう選手生命は終わりだろうか。こんなに苦しい思いをしてまで、選手にこだわる価値があるのだろうか。本気で悩みました」。
しかし、インスリン投与で血糖値をコントロールすればセパタクローに戻ることができると知り、復活の道を選択。今も毎日、毎食前の3回、就寝前1回のインスリン投与が欠かせませんが、「自分の活動が同じ病気に悩んでいる人たちの励みに少しでもなることが、僕自身への励みにもなる」と田尻さんは言います。
99年に大阪に戻り、「SUITAKRAW」を結成しました。「大阪セパタクロー協会」の設立にあたって田尻さんは、高野台中学時代の恩師、日本共産党の阿部誠行府議に連絡し、会長になってほしいと依頼。「阿部先生はスポーツに理解があって、誠実そのものの人だから」というのが思い立った理由でした。
関西外国語大学2回生の光岡茉莉子さん(21)は、大学のセパタクローサークルにも参加していますが、自宅のある奈良市から、「SUITAKRAW」の練習で吹田市にやってきます。「私はまだ初心者ですが、田尻さんはとても分かりやすく教えてくれます」。キャプテンで10年のキャリアがある中西秀明さん(30)は、大先輩の田尻さんを「天才肌の人」と尊敬しています。
田尻さんは「将来、選手を引退しても、セパタクローに関わっていきます。日本のセパタクローが世界に通用するところまで。それが、これまで僕を支え、応援してくれたすべての人々、親や妻への恩返しだと思う」と話しています。

▼セパタクロー9世紀から東南アジア各国で伝えられてきた伝統スポーツ。セパタクローは合成語で「セパ」はマレー語で「ける」、「タクロー」はタイ語で「ボール」の意味です。バドミントンと同じ大きさのコートに、ネットを挟んで足やもも、頭を使ってボールを相手側に蹴り入れる競技で、手は使えません。3つのレグ(1レグは3人1組)が1チームとなって対戦する種目など5つの競技方法があります。1965年に東南アジア競技大会の種目に採用されたとき、アジアセパタクロー連盟が設立され、統一ルールができました。90年の第11回アジア大会(北京)の正式種目に。97年からは女子種目が新たに世界選手権大会とアジア競技大会の種目に加わりました。
ボールは9〜11本の細い棒状のもので編んだトウまたはプラスチック製で、重さ170〜190グラム。円周40a。

中学時代の恩師が激励メッセージ
大阪セパタクロー協会会長
日本共産党大阪府議会議員阿部誠行

主役は生徒を合言葉に生徒会役員の1人として活躍した中学校時代。生徒が主人公の学校づくりに挑戦。サッカー部でも大活躍。イガグリ頭のサッカー少年は、その秀でた技術が吹田のみならず、高槻や茨木でもサッカー関係者から高く評価され、高野台中学に田尻ありとその名が知られていました。将来はJリーガーとして活躍するのではないか……と期待していました。
ところが高校卒業する時、大学はサッカーではなく、セパタクローをやっている大学に進学することを聞かされて本当にビックリ。高校でもサッカー選手として活躍していただけに、耳慣れないスポーツに挑戦しようとしている若者の決断は衝撃的でした。
大学生活は「セパに明け、セパに暮れる」4年間だったのでしょう。持ち前の器用さと豊富な練習量、旺盛な研究心が、未知の世界だったセパタクローの日本代表チームの選手への道を切り開いたのでしょう。彼の歩みはそこで終わるのではなく、大学卒業後も国内第一人者としての技術をさらに磨くとともに、大阪を拠点にセパタクロー普及のための活動にも挑戦。それが私との新たな出会いとなりました。
競技生活を続けるために1年の3分の1近くをセパの本場、タイを中心に海外生活。そのため定職につけず、アルバイトで資金稼ぎ。まさに青春のすべてをセパタクローに懸ける教え子の姿に胸が熱くなりました。メジャーではないがための困難の連続、その現実にひるまず果敢に挑む若者の生き方に感動しました。彼から「大阪セパタクロー協会」設立に会長として力を貸してほしいと頼まれ、二つ返事で引き受けたことは言うまでもないことです。
今、大阪のセパタクローを田尻君を中心に、高野台中学時代の生徒会役員とサッカー部の仲間達が力を合わせて支えて頑張っている教え子の姿に触れながら、嬉しくもあり、頼もしくもあり、この若者達にますます惚れ、苦労を少しでも分かち合えたらと思っています。

投稿者 jcposaka : 2007年01月20日

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