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編集長のわくわくインタビュー 詩人 島田洋子さん

2007年06月15日

男女平等と平和への願い込めて
「怒りから生まれる」詩とは

1970年大阪万国博覧会のテーマソング 「世界の国からこんにちは」 の作詞から、 大阪弁によることばあそびうた、 社会を鋭く照射する現代詩まで、 言葉に関わる活動を多彩に続けてきた詩人の島田陽子さん=豊中市在住。 一昨年、 ガンの大手術を受けた後も、 詩作活動にとどまらず、 同人誌発行、 講演など多忙な生活を送っている島田さんにお話をうかがいました。 (聞き手 佐藤圭子)

   ご自身が主宰なさっている、 詩と童謡の同人誌 『ぎんなん』 (季刊) がこの春で15年、 現代詩の同人誌 『叢生』 (隔月刊) が25年を迎えられました。 それだけでなく講演や講座などでもお忙しくされて、 とても大病されたとは思えない活動ぶりですね。
島田 ガンは自覚症状のないことが多くて見つけにくいんですけど、 私は幸い見つかって。 2年前の12月に手術しました。

病気になって身近になった「命」

 今まで元気印で病気とは無縁の生活だったので、 自分が病気になってみて命を身近に見つめるようになりましたね。 それでガン体験の詩を書くようになったら、 面白いことに、 「実は私もガンを手術したんです」 と言われる人が多くて。
 手術後、 再発予防の抗ガン剤を半年打ちましたが、 気にしてもあかんし、 前と変わらず食べたいもん食べて、 夜更かしもしてます。 毎日の仕事に追われて自分の詩集を出すのはどんどん後回しになってますけどね。
   島田さんの大阪弁の詩は、 「うち知ってんねん」 など小学校の国語の教科書や副読本にもたくさん載っていますが、 大阪の言葉で詩を書くようになられたのはいつごろからですか?
島田 1970年代から。 私の家は、 父親が一つどころに落ち着けないサラリーマンで、 転々と引っ越したんです。 1年生の時は東京、 2年、 3年は山口県、 4年生は西宮、 5年生で初めて大阪に来たんですが、 みんなが話してる大阪弁がすごく面白くて。 友だちと遊んでても、 「今、 あのおばちゃん何言いはったん?」 って聞いてました。 よそ者だからこそ、 地の人は意識しない新鮮さを感じたんでしょうね。
 結婚して子どもが生まれてから童謡を書くようになったんですが、 共通語で書くと、 どうしても女の子の気持ちが書ききれない。 本当に自分の言いたいことは、 大阪弁をつこたら何でも書けるというのが分かったんです。
   島田さんと言えば、 今でも知らない人はいない 「世界の国からこんにちは」 の作詞者ですが、 これはやはり詩人としての活動の転機になったんでしょうか?

「調和」のテーマに心を砕いた 

島田 万博のテーマは 「進歩と調和」 でしたが、 私は 「調和」 というテーマに一番心を砕いたんです。 当時、 外国の人を見たことのない日本の子どもたちに、 戦争中にはできなかった世界的な交流の場で外国の文化に触れ、 平和っていいもんだと、 知ってもらいたかったんです。 人と人が 「こんにちは」 と笑顔でかわし合いながら交流する場を夢見た詩です。
 でも、 あれは社会現象にまでなってしまって、 作者としては、 もう自分の作品のような気がしませんでした。 一人歩きして遠くへ行ってしまったという感じです。 それに歌の詩ということで、 私は小さくなってました。 いまでこそマルチに仕事をするのはいいことだと思われるようになりましたが、 当時は現代詩の世界では詩一筋でないと詩人として認められないという風潮がありましたから。 だけど、 老若男女に親しまれる詩だという自負はありましたね。

両親の生活を反面教師に育った

   島田さんはよく、 「私の詩は怒りから生まれる」 と発言されていますが、 それは具体的にはどのようなことですか。
島田 一つは両親の生活への反発です。 封建的家父長制で女性は良妻賢母を強いられ、 人権さえ認められなかった時代でしたから、 母が言いたいことも言わず忍耐し、 父は好き勝手が出来る生活を、 不条理だと怒りつつ、 反面教師として育ちました。 男女不平等への怒りが詩を書かせたと言えます。

抑圧された女性たちの代弁者 

 童謡詩人の金子みすゞも、 母と同じ年に生まれましたが、 若くして自殺した彼女も男性優位社会の犠牲者でした。 私の詩に流れているジェンダーフリー (社会的文化的性差からの解放) の精神は、 女性差別に苦しんできた女性たちの代弁でもあります。  
    「いいことはなんにもなかった」 から始まる 「鬼火―母に」 は、 まさにそんな思いがあふれた詩ですね。 抑圧されて生きてきた女性を客観的に見つめ、 心寄せながら、 歴史の発展を感じさせる内容がとても印象的な作品です。
  島田さんの作品には直接間接に平和へのメッセージがこめられているものも少なくありませんね。
島田 戦争に対する怒りもありますから。
 私たちは神話を歴史として教えられました。 戦争体験者としては絶対いや。 二度とあんな思いはしたくない。 それは意識的な反戦反核というより、 生理みたいにしみついています。
 戦後、 新しい憲法ができて戦争を放棄し、 民主主義になり、 女性も選挙権を得ました。 あんな立派で理想的な憲法はないと思います。
   詩を作るにあたって大切なことは何ですか?
島田 小学生に詩を作ってもらう時は、 「あっと驚く心と、 発見する眼が一番大切」、 大人の人には 「発見と批評」 と言ってます。

自分の書きたいことを書く  

 詩を書くことで、 自分を見つめることができます。 自分を隠していてはだめ、 さらけださないと。 きれい事を書いていたら人の心を打ちません。 私はこれからも自由に自分の書きたいことを書いていきたいと思います。

「おんなの子のマーチ」
きかいにつようて げんきがようて
スピードずきな おんなの子やで
うちのゆめは パイロットや
ジャンボジェット機 うごかしたいねん
おんなの子かて やれるねん
やったら なんでも やれるねん
  (二連目略)
ちからがつようて どきょうが ようて
スリルのすきな おんなの子やで
うちのゆめは レンジャーや
災害おきたら たすけにいくねん
おんなの子かて やれるねん
そやけど せんそう いややねん
へいたいさんには ならへんねん

「鬼火  母に」

(前略)
あなたの鬼火はあなただけのもの
あなたの肉体とともに消えたかと思ったが
どっこい 昭和生まれの私の中に
チロチロ燃える青い火
あなたよりずっと自由に生き
あなたの遂に知らなかった妻の平安を得ても
なお燃える
抑圧された性の 燐光
暁闇の中で 女たちの胸から胸へ伝達される
この火を
私もまた娘に渡そう
娘は あなたの孫は
恐らく私よりもっと自由に生きられるだろう
抑圧する性にたよらず
自立し そして ひとを愛するだろう
けれど 受けついだ鬼火が燃えつきない限り
娘はさらに 自分の娘に伝えるだろう
すべての女たちがそうしてきたように

しまだ・ようこ 1929年東京生まれ。 11歳から豊中市在住。 日本現代詩人会、 日本詩人クラブ、 日本童謡協会、 日本文芸家協会、 詩と音楽の会会員。 1970年 「世界の国からこんにちは」 が大阪万国博覧会のテーマソングに入選。 詩集 「ゆれる花」 「北摂のうた」 「大阪ことばあそびうた」、 童話集 「海のポスト」、 エッセイ集 「金子みすゞへの旅」 など著書多数。 童謡集 「ほんまにほんま」 が第11回日本童謡賞。

投稿者 jcposaka : 2007年06月15日

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