編集長のわくわくインタビュー 嘉納 愛子さん
百歳の声楽指導者
若さの秘訣は何ですか?
おしゃれと、 好奇心ね
嘉納愛子さん、 御年100歳。 日本を代表する作曲家・山田耕筰から直接、 声楽を学び、 二十代の頃、 歌手として活躍。 結婚後十数年のブランクを経て40代から後進の育成のために音楽活動を再開、 現在も全国各地から訪れる学生や音楽家を指導し、 山田耕筰の音楽や魅力を伝え続けています。 「若さの秘訣はおしゃれと好奇心よ」 と語る嘉納さんを、 大阪市阿倍野区の御自宅に訪ねました。 (聞き手 佐藤圭子編集長)
NHKの 「100歳バンザイ!」 に出られたのを見て、 ぜひお会いしたくなって。 それにしても若々しくて、 とても百歳とは思えないですね。
嘉納 来年1月1日に101歳になるのよ。 さすがに人の名前をなかなか思い出せないことあるけど。 自分ではまだ80やと思てるわ (笑い)。
20世紀を丸ごと生きてこられたことになるんですね。 小さいころから歌がお好きだったんですか?
嘉納 ええ。 学校の学芸会とかでもいつでも歌わせてもらってましたね。 歌が好きになるように生まれたから、 両親にお礼言わないといけない。
猛反対を押し切り東京音大へ
だけど、 神戸の女学校卒業する時、 東京音楽学校 (現東京芸大) を受けたくて父に相談したら、 猛反対。 「そしたら死ぬわ」 と言って脅かして、 願書を取りに行って試験を受けたら合格したんです。 すると父は今度は、 受けるのは許したけど、 学校行くのはだめだって。 それでも無理やり行きました。
学校では 「叱られて」 を作曲した弘田龍太郎さんや、 「海ゆかば」 の信時潔さんなどに習いましたが、 ほとんどドイツ系の先生で、 ドイツ語でばっかり歌ってました。
山田耕筰さんと出会われたのはいつですか?
嘉納 昭和3年に大学を卒業した後、 日本歌曲の勉強をしたくて、 ある方の紹介で先生の所にレッスンに通うようになったの。 2、 3年、 東京で習ってましたが、 先生は、 「阪神間の文化が遅れてる、 西洋音楽が遅れている所に行って自分で啓蒙けいもうしたい」 と意欲を燃やして大阪に来られたんです。
それで先生の演奏会にもよく出演させてもらって、 当時、 上本町9丁目にあった大阪BK (NHK) でも、 山田先生の指揮でよく歌いました。
歌の心と詩の心を師から学んだ
山田先生の棒で歌ったことのある人は少ないですが、 先生の指揮はとても歌いやすくて、 タクトを見てると、 不思議なことにいくらでも高い音が出せるの。 「からたちの花」 の一番上のG (ソの音) とかも軽くね。 まるで魔法の指揮棒でした。
山田耕筰さんから、 一番、 学ばれたことは何でしたか?
嘉納 心です。 歌の心。 詩の心。 オーケストラでも何でもそうだけど、 自分自身がその心を知らないと、 演奏した時に人に共感してもらうことはできません。
先生は歌ってはだめ、 語りなさいとよく言われましたね。 先生は、 自分の歌の中で一番、 日本語の心を素直に表現しているのは、 「からたちの花」 だとおっしゃっていました。
20代のころは歌手として活躍されながら、 結婚後はしばらく音楽からは離れられたそうですが。
嘉納 山田先生から紹介された嘉納鉄夫と結婚したんです。 関西学院で山田先生の1年後輩で、 経済的なことも含めて先生を支援していました。 先生が、 歌曲 「野薔薇」 (三木露風詩) をヴァイオリンとピアノに編曲された作品には、 「T兄に捧ぐ」 とありますが、 鉄夫のことです。
主人は、 北原白秋さんとも飲み友達で、 ぐでんぐでんになるまでよく飲んでましたよ。 私たちの結婚式は、 山田先生ご夫妻が仲人をしてくださって、 この日のために白秋さんが作詞、 山田先生が作曲して歌も贈ってくださいました。
一人息子を亡くしたことで
嫁いだ先は、 朝廷や幕府にお酒を直接、 献上していた御影の酒造家 (菊正宗)。 お茶やお花など、 日本古来のけいこ事には理解はあっても西洋音楽はだめ。 ピアノも蔵の中に入れられてしまいました。
ただ、 とにかく人の出入りが激しくて、 まるで毎日がお祭りみたいに面白くて、 不思議と歌いたいとか思ったことがありませんでした。
ところが昭和21年に、 一人息子を10歳で亡くし、 2年ほど主人も私もボーっとしていたんですが、 ある日、 急に歌いたくなって、 夜、 誰もいない砂浜に出て、 海に向かって、 淡路島まで聞こえるぐらいの声で 「ワー」 と叫んだんです。
音楽をやるために帝塚山へ
主人も、 ここにおったら音楽がやれないから、 大阪に行こうと言ってくれて、 帝塚山に引っ越してきました。 そしたら間もなく相愛大学の学長が家に来られて、 大学で声楽を教えることになったんです。
当時すでに神戸女学院に音楽科があって、 その後、 武庫川女子大学にも音楽科ができたり、 大阪音楽大学や大阪芸術大学もできたりして、 相愛がだんだん井戸の中に入っていくように感じられました。
それで主人に相談したら、 「山田を呼んだらいいじゃないか」 と言ったたので、 先生に来ていただけませんかと頼むと、 「行くよ」 と言ってくださって、 音楽部の学部長に就任してくださることになりました。
すると先生が声を掛けてくださったら、 齊藤秀雄さん (指揮)、 池内友次郎さん (作曲)、 井口基成さん (ピアノ) など有名な方々がどんどん集まって来られて、 いっぺんに活気づいて、 レッスン室には全部エアコンがつき、 ホールもできて、 全国から見学者が来るようになりました。
山田耕筰さんって、 どんな方だったんですか?
嘉納 とにかくぜいたくで、 お金をぱーっとよく使う人でした。 昭和初期ごろだったかしら、 中之島公会堂で演奏会があったんですが、 ホールに払うお金も使ってしまって、 「幕が開かないから、 至急金を持ってきてくれ」 と、 嘉納のもとへ使いを走らせられたこともありました。
借金もあったけど魅力的な人
演奏料が入っても、 全部自分のポケットに入れてしまって、 オーケストラの楽団員に行かなかったりとか。 借金もいっぱいあったけれど、 魅力的な人でしたよ。
嘉納さんは78歳までいろんな大学で指導にあたられて、 それからはご自宅で教えられてきたそうですが。
嘉納 きのうも香川から来られましたよ。 私は山田先生に教えていただいたことを、 そのまま伝えるようにしています。
人はね、 いくつになっても歌えるんです。 20代、 30代、 40代、 50代、 60代と、 年代によって、 年齢によって、 感じ方が違う。 70代の人は、 きらきらしていないけれど、 人の胸を打つ歌い方ができるものなんです。 声帯は老化しません。 人間は生涯歌えるんですね。
若さの秘訣は何ですか?
きょうの続きが明日もあれば…
嘉納 私はおしゃれにも関心があるし、 何でも見たいし、 聞きたい。 好奇心が旺盛なの。 絵も好きだし、 きれいな物を見るのが好きよ。
天王寺の美術館で書の展覧会が開かれた時も、 1時間見てクタクタになりましたが、 感動しました。 最初、 バーンと書いて、 細い所でも力をぬいているようでぬいてない。 字も声楽も一緒なんですね。
新聞は毎日、 拡大鏡を持って全部、 読んでます。
明日はどうなるか分からないし、 こんなお話が明日はできないかも知れない。 だからきょうの続きが明日もあったらいいのになあっていつも思うの。 きょうはありがとう。 明日も続きますようにって思って毎日寝るんです。
そしたらいつの間にか100歳になっちゃったんですね (笑い)。
かのう・あいこ 1907年、 大阪市生まれ。 東京音楽学校卒業後、 作曲家山田耕筰の門下生に。 灘の酒造家 「菊正宗」 の分家の4男、 嘉納鉄夫氏と結婚。 戦後は相愛大、 大阪樟蔭女子大、 大阪芸大の教授を歴任し、 100歳の現在も、 自宅で後進の指導に力を注いでいる。
投稿者 jcposaka : 2007年11月15日