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女も戦地へ送られた 消せない記憶 戦争の真実 「従軍看護婦」

2008年01月17日

  「兵隊さんたちは天皇陛下のためと言って死んでいった。 この戦争は誰に責任があるんやろ…」  1945年12月、 広島駅から大阪へ向けて出発した汽車の中で、 上田照子さん (当時18歳・旧姓石井)は戦友に問いただしました。 日赤看護婦として従軍していたフィリピンからの帰り、 一面焼け野が原となった広島を前に、 そう問わずにはいられなかったのです。
  「戦争の真実」 を次世代に伝えたいと、 1985年から語り部活動を続けている上田さん (80) =吹田市在住=は、  大阪市阿倍野区で7人姉妹の5番目として生まれました。 姉3人は幼くして病気で亡くなり、 4人姉妹と両親の6人家族。 女ばかりで肩身の狭い思いを味わう日々の中、 「女でも国のために尽くせ」 と、 父親の命で日本赤十字社大阪支部病院看護婦要請所に入学。 高等小学校を卒業したばかりの、 15歳の春でした。
 養成所では軍隊並みの厳しい規律と容赦ない指導に必死で耐え、 卒業。 その1週間後、 自宅に召集令状が送られてきました。 ピンク色のざら版紙には、 「乙種救護看護婦 石井照子 右者戦地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ関スル條約ニ依リ専ラ軍隊衛生勤務ニ従事スル者タルコトヲ認識證明ス」 とあり、 陸軍省の印が押されていました。
 まさかと目を疑いました。 父は喜び、 母は泣いていました。

ジャングルの中へ

 部隊最年少の16歳。 1944年4月、 第302救護班・大阪班の一員として、 小型船に乗り込み、 広島宇品を出航。 1週間後、 フィリピン・マニラへ上陸。 配属されたケソン分院の伝染病棟では、 チフス、 マラリア、 コレラ、 ハンセン病といった伝染病に苦しむ兵士を看病。 若く、 はつらつとした照子さんは、 「看護婦さん、 看護婦さん」 と慕われました。
 12月に入り、 戦況悪化でバギオに後退。 陸軍病院から兵站病院へ転属になり、 さらに終戦年4月、 バギオにも米軍が上陸したため、 病院を捨ててジャングルへ逃亡。 両足切断や高熱などで歩けない兵隊は、 衛生兵に青酸カリを手渡され、 置き去りにされました。 照子さんたちがジャングルに入った後、 病院には火がつけられました。
 照子さんたちは、 女と悟られぬよう短髪にし、 縫い直した軍服にゲートルを巻いた姿で逃走。 軍からは、 「敵に捕まれば自決せよ」 と、 青酸カリと手榴弾が一人ひとりに配られました。 照子さんは、 何かの拍子に爆発してはいけないと、 手榴弾だけこっそり川に捨てました。
 食べる物はありません。 地面に生えている様々な草や、 フィリピン人が育てているショウガを生で食べて飢えをしのぎました。 死んだ兵隊の軍靴用油を、 それと知らずに調理に使い、 しばらくは下痢と嘔吐が続いたことも。 生理は止まっていましたが、 排泄時は芋の葉を紙代わりに使いました。

必ず生きて帰ろう

 頭も服もシラミだらけ。 着の身着のまま、 靴もなくなり、 山ヒルが足や腕に吸い付きました。 マラリアにもかかりました。 3日おきに40度の発熱。 季節は雨季に入り、 毎日決まった時間に激しいスコールが体をたたきつけました。 もうここで死にたいと何度も思いましたが、 そのたびに、 「お母ちゃん、 お父ちゃんに会うまでは、 絶対に死んだらあかん。 生きて帰ろう」 と戦友に励まされました。 照子さんの熱が下がると、 入れ違いに戦友が発熱。 その繰り返しでした。
 マラリア熱にうなされながら岩の上で横になっていた照子さんのそばを、 在留邦人の一行が通りがかりました。 乳飲み子を背負った女性に手を引かれて歩く5歳ぐらいの男の子が目に入りました。 マラリアで腫れた顔。 「もうあの子はだめかもしれない」 と思った矢先、 その男の子は、 ごろごろと谷を転げ落ちていきました。

なんであんただけ

 大阪班32人のうち、 12人が戦死。 そのうち3人は爆死、 残りの9人はマラリアなどの病死や餓死でした。 銃撃で、 頭が蜂の巣のように穴だらけになって死んだ同僚は、 日本に乳飲み子を残しての戦死でした。
 7月12日、 照子さんら大阪班は、 第一線の野戦病院に配属替えになり、 8月22日、 そこで終戦を知らされました。 早くから安全圏に逃げていた軍の幹部たちは、 照子さんたち一行を部隊へ呼び戻し、 捕虜収容所へ着くまでの食料として乾パン1袋と2合の米を配給しました。 薄いおかゆを炊き、 友人と分けて、 「おいしいなぁ、 お米は」 と泣きながら、 一粒一粒すすって味わいました。
 捕虜収容所では、 バギオで一緒だった日本人の 「従軍慰安婦」 たちに再会。 髪にパーマを当て、 「看護婦さんたちも、 あのとき白旗挙げて降伏してればこんな目に遭わなかったのに」 と話しかける彼女たちに、 照子さんは返す言葉がありませんでした。
 その年の12月、 照子さんは、 骨と皮に痩せて、 マラリア治療薬のキニーネで黄色くなった顔のまま帰国。
 その1カ月後、 1つ年上の戦友の母親が、 照子さんのもとを訪れました。 日赤の大阪支部に聞いても何も教えてくれなかった、 娘の戦死状況を教えてほしいと懇願する母親に、 マラリアで歩けないため衛生兵に背負われて別の収容所へ行き、 9月22日に亡くなったと伝えました。 別れ際、 「照ちゃん、 私ね、 ぜんざい、 おなかいっぱい食べたいねん」 と弱々しく言った彼女の言葉は、 話しませんでした。
  「なんで、 あんただけ帰ってくるの」
 戦友の母にぶつけられた言葉に、 照子さんは黙って泣くしかできませんでした。

戦争は人間性奪う

  「戦争になれば、 人の命は紙くずより劣る。 本当よ」
 上田さんは言い切ります。 フィリピンでの体験があるからこそ、 戦後、 夫と鈑金加工の会社を起こし、 どん底の貧乏になっても、 どんなつらいことがあっても頑張れたと言います。 「でもね、 子どもや孫たちに同じ経験は絶対にさせたくない。 戦争になれば、 兵隊は人間ではなくなります。 軍隊がどんなに残酷なところか。 沖縄の集団 『自決』 に軍の命令はなかったって政府は言うけど、 あんなのウソ。 私が証明します」。
 夫は2年前に亡くなり、 現在は、 息子が継いだ工場で経理をしながら、 遺族年金での一人暮らしです。 戦地へ行っても恩給は出ません。 日本赤十字社からも戦争についての謝罪などは、 いまだにありません。
 上田さんは力を込めて語ります。
  「あの戦争がどんなに悲惨なものだったか、 戦争に行くのは、 男だけじゃないということを知ってほしい。 今は平和だけど、 いつ戦争になるか分からない。 そうならないように、 12人の戦友や、 置いていかれた兵隊さん、 死んでいった多くの残留邦人のことを語り継いでいきたい。 それが私にできることですから」
 上田さんは1985年に、 戦友たちと戦争体験集 「遥かなりプログ山」 を、 07年3月に小・中学生の講演感想文をまとめた本を自費出版。 戦争体験講演会は、 2月で90回を数えます。

投稿者 jcposaka : 2008年01月17日

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