編集長のわくわくインタビュー 大醤株式会社6代目社長 河盛 幹雄さん
伝統の味を守り続けておられますね
いい素材の引き立て役に徹したい
寛政12 (1800) 年創業、 堺大空襲で工場全焼、 日本人の食生活の変化による出荷量の減少など、 さまざまな困難を乗り越えながら、 伝統の味を守り抜いてきた醤油製造会社の老舗 「大醤株式会社」。 最近では、 泉州ならではのユニークな商品開発も手がけている6代目で現社長、 河盛幹雄さんにお話をうかがいました。 (聞き手 佐藤圭子編集長)
はじめまして。 大醤さんの 「ぽんずしょうゆ 河内屋又兵衛」、 我が家の食卓にも並んでいて、 いつもお世話になっています。 河盛 それはそれは、 ありがとうございます。 河内屋又兵衛は創業者。 堺で醤油を作り続けて、 ことしで208年になります。堺での醤油づくりは町人が主役
堺で醤油づくりが全国的に一番盛んやったのは江戸時代の初めです。 当時、 堺名物として 「醤油だまり」 があったことがいろんな文献に出てきます。 和歌山の湯浅とか兵庫県の竜野とか他の地域では、 藩の政策として醤油がつくられてたそうです。 それに対して堺では、 つくる技術は紀州街道を通じて湯浅から伝わったけど、 醤油づくりそのものはあくまでも町人が主役やったんですね。
だけど江戸時代初めに堺で198軒あった醤油屋も、 いまはうち1軒になってしまいました。
日本人の食に欠かせない醤油ですが、 需要もずいぶん変化してきているみたいですね。
河盛 ええ。 15年、 20年前は日本国内全体で120万キロリットルつくられていましたが、 いまは94万キロリットルしか出荷がない。 しかもそのうち各家庭にいくのは3分の1ぐらいで、 あとの3分の2は加工業務用として食品メーカーにいって、 タレとかツユになったり、 外食産業の料理にばけるんですわ。
家庭でも大半は加工食品に
もう一つ大きな問題は、 一般家庭用でも、 昔はお醤油として購入されてたのが、 いま大部分はダシ醤油やポン酢とかタレ、 ツユとか加工食品になってます。 昔は各家庭の料理もダシからつくってましたが、 いまは煮物もダシや他の調味料が入ったツユを使うようになり、 醤油単独ではなかなか購入されなくなってきました。 醤油として使われるのは、 お刺身とか、 上からかけるぐらいになって。
様変わりですね。 食料自給率の問題も大きい。
河盛 そう。 醤油というのは大豆と小麦と塩が3大原料です。 江戸時代や戦前は、 国産の原料が大部分でした。 ところが戦後の日本の状況から国産の大豆や小麦が入手困難になって、 うちも大豆は外国産です。
コストは負担するから国産でとおっしゃるお客さんもいて、 高くかかるのを前提に仕込むこともあります。 だけどそれを一般のスーパーに流すのは値段が高すぎる。 国産のものを使っていきましょうというのは大賛成ですが、 食料自給率の問題はみんなで力合わせてやっていかんとあかんことなんですね。
そんな中でも、 伝統の味を守ってこられた。
先の戦争に耐え生き残った菌
河盛 「河又菌」 という麹菌が当社のオリジナルですが、 これは明治時代に日本で初めて醤油麹菌の純粋培養に成功した菌なんです。 この独自の菌を使って、 海外産の原料でも独特の風味の醤油に仕上げることが出来てるんですね。
堺の大空襲でうちの工場も蔵も丸焼けになりましたが、 醤油を醸造してるもろみだけは焼け残って菌も生き残りました。 そういう意味では、 戦争にも耐えた菌なんですね。
だから伝統の味を受け継ぐことができたんですね。
ところで2002年には日韓ワールドカップに合わせて 「キムチぽんず」 をつくられて、 最近さらに水ナス用のお醤油を開発されたそうですね。
河盛 ええ。 水ナスに合う 「泉州かけ用醤油」 というのを去年つくりました。 味のバリエーションを増やそう、 醤油で何かやりたいとみんなで話し合ってたら、 「それやったら泉州の水ナス」 と言うた人間がおりまして、 「それでいこ!」 と。 地産地消も大事にしたいということで、 河内ワインを少し入れてみました。
ただ、 私たちが忘れてはならないのは、 醤油というのはあくまでも脇役。 水ナスの個性を壊してはならないし、 他の漬け物も、 魚や肉も同じことで、 いいものをその味で食べてもらうのが本来。 私たちの役目はそれを引き立てることなんですね。
19年の会社勤めの経験を生かし
とても気さくな社長さんで、 従業員の方たちとも仲良さそうですね。
河盛 私、 ここに来るまでは別の会社で19年間、 サラリーマンしてたんですよ。 だから働く側の立場や苦労も体験したことは、 いまとなってはすごく良かったと思っています。
自分にも従業員にもいつも言ってるのは、 仕事は楽しくないといかんということ。 仕事を面白くするために、 一日のうち、 きょうはこれだけは楽しんだろというのをつくる。 そしたら、 営業でクレーム処理に行くのいややけど、 相手先が京都にあるとしたら、 京都の東寺の五重塔を見てこれる。 そう思ったらクレーム処理も楽しくなるやないかと。
なるほど。 クレーム処理まで楽しくなるなんて!
ところで、 2階のホールに掛けてあった書、 すごい迫力でした。 「平和とは祈りか闘いか」 「原爆はまだある」 という言葉が書いてありましたが。
河盛 あれは亡くなった従業員が書いてくれた書なんです。
戦争の愚かさ発信するのは義務
我が国は唯一の被爆国で、 戦争に負けて国民がいっぱい死にました。 大空襲でうちも工場が全焼して、 道具類とかいろんなものがなくなってしまいました。 戦争をしたら、 そこで技術が止まってしまいます。 一からやり直しせんとあきません。 痛みが分かる者として、 そのおろかさを発信し続けるのは義務だと思います。
これから食の時代はますます厳しくなると思います。 我々みたいな中小企業が大きな会社さんと渡り合っていくのはなかなか難しいけれど、 小回りを利かしたり、 地域に根付いた農産物に関係した調味料づくりとか、 中小企業だからこそできることをどんどんやっていきたいですね。
かわもり・みきお 1952年、 大阪生まれ。 サラリーマン生活19年を経て、 1996年、 大醤株式会社に入社。 00年から社長 (創業者から6代目)。 農学博士。 いずみ・わかやま市民生協友の会副会長。 学校や地域で醤油に関する講演も。
投稿者 jcposaka : 2008年03月13日