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大阪空襲被災者提訴へ 「子や孫に平和な社会を」原告団結成集会 12月8日集団提訴へ

2008年11月27日

 このままでは死ねない  1944年12月19日から45年8月14日まで米軍の爆撃機による50回に及んだ大阪空襲の被災者と遺族らが、 太平洋戦争開戦から67年となる12月8日、 国に対し謝罪と1人当たり1千万円の損害賠償を求めて大阪地裁に集団提訴します。 民間の空襲被災者への謝罪と補償を一切行っていない政府の不条理を正し、 被災者の人間としての尊厳を取り戻すための裁判。「無謀な戦争を引き起こした政府の責任を明らかにし、 2度と戦争の誤りを許さない」 と24日、 大阪市中央区内で原告団結成集会と支える会発足のつどいが開かれました。

  「両親、 姉2人と弟1人、 叔父さんの家族4人が空襲で焼け死にました…」。 一夜で約5千人が犠牲になったとされる1945年3月13日深夜から翌日未明にかけての大空襲。 肉親9人を失った女性 (74) は、 涙をぬぐい言葉をつなぎます。 「学童疎開で難を逃れたが、 その後の人生は苦労の連続でした。 父さんと母さんの骨も見たことはありません。 無念の思いを裁判で伝えたい」  90人の参加者で満員となった大阪市立中央会館会議室。 一人ずつ紹介された原告が被災体験を語ると、 息を飲んだような静けさに包まれます。  同じ夜の大空襲で生後約2時間後に防空壕の中で被災した藤原まり子さん (63)。 左足に大やけどを負い、 その後ひざから下を切断。 「人生を狂わせた戦争の実態と、 いまも続く苦しみを世に伝え、 ずっと被害を放置してきた国の責任を問いたい。 子や孫たちのために戦争のない社会を手渡したいんです」

「国の不作為問いたい」
原告団弁護士

 空襲被災者らによる集団提訴は昨年3月の東京大空襲訴訟に続く2例目。 大阪訴訟の原告は18人となる見込みで、 この日の結成集会にはこのうち14人が参加、 支援者ら約90人と裁判勝利への決意を固め合いました。
 原告団準備会の安野輝子代表世話人 (69) は、 「心身に傷を負った被災者や遺族の声を届けたい。 裁判で国の戦争犠牲受忍論を撤回させ、 すべての民間人戦争被災者に対する補償をする国に変えたい」 と訴えました。
 原告団の高木吉朗弁護士は、 「大阪空襲訴訟が問うもの」 をテーマに裁判の意義を発言。 戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく旧軍人・軍属や遺族に対する手厚い援護策の一方、 民間の空襲被災者が 「国との雇用関係がなかった」 と補償の対象外に置かれた問題を批判。 「責任を認めず放置し続けた国の不作為を問いたい」 と訴訟方針を説明しました。

東京からエール

 空襲被災をめぐっては名古屋空襲国賠訴訟で最高裁が87年、 「戦争犠牲ないし戦争損害は、 国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、 国民のひとしく受忍しなければならかったところ」 と立法裁量を認める上告棄却の判断を示し、 「戦争犠牲受忍論」 の最高裁判例が壁となっています。 一方で中国残留孤児訴訟では、 神戸地裁が06年12月の判決で、 「戦争犠牲受忍論」 に立つ国の姿勢を批判し、 原告勝訴の判決を言い渡しています。
 集会には先行する東京大空襲訴訟の原告と弁護団も駆け付け 「道理ある私たちの主張が実るようお互いに頑張りましょう」 とエールを送り、 大阪大学の木戸衛一准教授が 「無差別大量殺りくの根絶を求めて」 と題して講演しました。
 作家の藤本義一さんや立命館大学国際平和ミュージアムの安斎育郎名誉館長ら著名人が呼び掛け人に名を連ねる 「訴訟を支える会」 の活動について、 ▽来月8日の提訴支援など裁判傍聴▽政府・国会などへの要請、 署名などの推進▽入会の呼び掛け―など当面の活動方針を確認しました。

大阪空襲
 太平洋戦争末期の1944年12月19日から45年8月14日にかけて、 大阪市や周辺に及んだ米軍のB29爆撃機による無差別攻撃は約50回に及び、 1万5千人が犠牲になり、120万人が被災しました。
 大空襲と呼ばれる8回の中でも、 45年3月13日深夜から14日未明にかけての大空襲では、 焼夷弾が雨のように降り注ぎ、 焦土と化した大阪の街は、 梅田から難波までが見渡せるほどに破壊されました。

投稿者 jcposaka : 2008年11月27日

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