政治動かす新しい力 参院大阪選挙区候補 清水ただし物語2 人間の幸福目指す党に人生を重ねて
1月に開かれた日本共産党第25回党大会の雰囲気を、「朝日」(1月16日付)は、こう描きました。
「党員たちの報告も多彩だ。参院大阪選挙区に立つ清水忠史・大阪市議(41)は青い法被、濃紺の前掛け、短髪に鉢巻姿で登壇。松竹芸能の元漫才師で…」
芸人目指し訪れた転機
清水ただしさんは1968年5月5日生まれ。両親が共働きの家庭で、小さいころから2人の妹の面倒をみました。住み込みで新聞配達をしながら予備校に通い、大阪経済大学2部入学後は大阪市北区の喫茶店でアルバイトをして学費や生活費を稼ぎました。
小学校の児童会長、中学校の生徒会長を務めるなど「人前に出たいタイプ」でした。「いろんなことに挑戦したい」と、23歳で松竹芸能のオーディションを受け、20倍の難関を突破して合格。94年に漫才コンビ「ツインタワー」でプロデビュー。全国巡演のミュージカルにも起用されましたが、福井県での初日を明日に控えた95年1月17日、阪神・淡路大震災が起き、公演は中止となりました。
人間の幸福目指す党に
救援ボランティアで駆け付けた神戸で、「政府の無策と、献身的に活動する日本共産党の姿を見た」と清水さん。それまでの選挙はすべて棄権していましたが、アルバイト先で勧められた「しんぶん赤旗」日曜版を真剣に読み、「自分の人生を模索するようになりました」。
大阪城ホールでの日本共産党「躍進のつどい」(97年1月)に初めて参加。「僕みたいに政治に無関心だった者にも分かるように、国民の運動で政治は変えられるという展望を聞き、『すごいな共産党』とわくわくしました」。
その3カ月後、当時北・福島地区副委員長だった宮本岳志さん(現衆院議員)の推薦で入党。翌年7月の参院選大阪選挙区で初当選した宮本さんの後を継ぎ、地区委員会に勤務。「しんぶん赤旗」の配達・集金を支える機関紙出張所で働くようになりました。
「人に楽しんでもらうことが僕の喜び。その原点は、人間の幸福を目指す日本共産党の中でこそ生かせると思った」と、清水さんは言います。
苦難解決へ全力で奮闘
「専従活動家として、党の要請には全力で応えよう」と決意した清水さんは、大阪市福島区で03年の府議選に続き、07年の大阪市議選(定数2)に挑戦しました。
清水さんは、大型開発優先や旧同和行政の無駄遣いによる「財政危機」を理由に、市民犠牲を進める「オール与党」市政の転換を訴えるとともに、場外車券売り場の進出反対、大阪厚生年金病院を守る運動と共同し、粘り強い調査を続けて大阪府や政府とも交渉。小泉「構造改革」で貧困と格差が広がる中、区民の生活相談にも全力で取り組みました。
多重債務に苦しむ相談者と共に、ヤミ金業者と直談判した時は、「お前、誰や」とすごむ相手に、「日本共産党の清水ただしです」ときっぱり対決。「相談に来られた方にとっては、日本共産党が“最後のとりで”。一歩も退けません」と清水さん。
長く活躍し良い社会に
自民2現職と3人で争う激戦の中、清水さんは前回比1・8倍の6852票を得て1位で当選。故塩田吾一さん以来の議席を取り戻し、山田みのり府会候補(現福島区生活相談所長)も前回票を3割伸ばして大健闘。マスコミも「批判票を集めた共産新人の清水忠史さんがトップ当選し、同区では20年ぶりに共産議席を獲得」(「読売」07年4月9日)と書きました。
当選の知らせに、「一晩泣いた」と振り返る同区在住の永井純子さん(69)=仮名=は、清水さんの勧めで入党しました。経営していたプラスチック工場が経営難に追い込まれ、担保の自宅兼工場も競売になる寸前に清水さんに相談。任意売却して借金を清算、アパートを探して生活保護を受けることができました。
清水さんが参院選の候補者になると聞いて、永井さんが「悲しくて泣いた」のは、「清水さんがいるから安心して暮らせると思っていたから」。いま、府内を駆け巡る清水さんに代わって、山田生活相談所長が続けるスーパー前宣伝にも週1回参加している永井さんは、「若いから国会に行っても長く活躍してくれる。子や孫のために良い世の中をつくってくれる」と期待を語ります。
投稿者 jcposaka : 2010年02月12日