おおさかナウ

2015年08月09日

戦後70年 未来につなぐ戦争の記憶
わたなべ結さん〝軍都大阪〟を歩く

 戦後70年の節目、日本を海外で戦争する国につくり変える安倍政権の策動に国民的反対運動が盛り上がっています。連日、幅広い人々と手をつなぎ、「戦争法案絶対阻止」と奮闘する日本共産党府青年学生委員会責任者・参院大阪選挙区候補のわたなべ結さんが、日本の戦争の歴史をいまに伝える大阪の戦跡を訪ねました。
 戦前、大阪は兵器の一大生産地で、地方から集めた兵を戦地へ送り出した出撃地でもありました。その歴史を伝える戦跡がいまも多く残されています。
 わたなべさんは、元府立高校教員で『大阪戦争モノ語り 街かどの『戦跡』をたずねて』(清風堂書店)著者、森田敏彦さんの案内で、兵隊が船へ乗り込んだ大阪港や、「東洋一」と言われた軍事工場群「大阪砲兵工廠」跡地、日本で最初に作られた「旧真田山陸軍墓地」を歩きました。

街角のモノから見える戦争
戦争軸でなく国民軸の政治に わたなべさん

 森田さんは「戦争体験者が少なくなる中、『戦争の実相を伝える証人』として残るモノたちのところへ足を運び、戦争を防ぐために何ができるか考えてもらえたら」と話します。
 アジア侵略のスローガン「八紘一宇」や「興亜日本」、「国威宣揚」などの文字が刻まれた石柱など、驚くほど何気ない街かどのモノから「戦争」が見えてきます。

戦地への出征基地
大阪市港区

食用動物を
偲ぶ獣魂碑

 大阪市港区の天保山公園とその南側一帯に、陸軍の兵士の食料や軍馬の飼料を調達、製造、補給する大阪糧秣支廠がありました。軍の食用として殺された動物をしのぶ「獣魂碑」が、同公園内にあります。
 動物と戦争に関わる碑は全国にあります。馬や犬、鶏は「活兵器」と呼ばれ、日本の戦争で使用されました。
 100万頭近い軍馬や数万頭の軍犬が戦場に送られ、「動物兵士」として命を失いました。

天保山公園の獣魂碑=大阪市港区内

天保山公園の獣魂碑=大阪市港区内

台座だけ残
った軍馬像

 築港南公園に巨大な台座があります。かつては青銅製の高さ約3㍍にもなる市内唯一の軍馬像がありました。もともとは日露戦争に出征した軍馬の慰霊のため、1909(明治42)年に中之島公園に建てられましたが、馬たちが船に乗降した大阪港に近いこの地に、22年に移設されました。
 戦局悪化により武器生産に必要な金属資源が不足し、1941(昭和16)年に金属回収令が出されました。像も回収され姿を消したと考えられます。戦前は像の前で愛国婦人会や国防婦人会、小学生らが参列し、軍馬慰霊祭が行われていました。
 「軍事の発展を目的に街づくりが進められ、侵略の拠点にもなった歴史を持つ都市に住んでいるなんて思っていませんでした」とわたなべさん。森田さんは「被害と加害の両面を見なければいけません。ともすれば加害の方は忘れてしまう」と話しました。

台座石だけが残った軍馬像。かつて高さ3㍍の軍馬像が建てられていました=大阪市港区築港南公園

台座石だけが残った軍馬像。かつて高さ3㍍の軍馬像が建てられていました=大阪市港区築港南公園

国力投じ武器生産
大阪城公園(砲兵工廠)

「東洋一」の
軍事工場に

 徳川幕府が倒れた後、明治新政府は「富国強兵」をスローガンに常備軍の創設に着手しました。大阪城という要塞があり海運・水運の便の良さなどから、大阪を「軍都」とすることがもくろまれました。
 「東洋一」と言われた巨大な軍事工場・大阪砲兵工廠は、現在の大阪城公園の西南一帯から大阪ビジネスパーク一帯まで、約130万平方メートルの敷地内に、200近い工場がありました。
 戦争末期には、本廠と枚方などの各製造所を合わせて正規の工員約4万1千人、学徒と女子挺身隊員約1万5300人、一般徴用工員約6600人、朝鮮人徴用工員約1300人を数えました。
 「工廠出身者や下請け企業により、大阪近郊で町工場の集積地が興った」と森田さん。
 「東大阪などの町工場もそうなんですか」と驚くわたなべさんに、森田さんは「そうです。松屋町筋のオートバイ販売店が軒を連ねる『バイク通り』も、元は工廠出身者によるノギスやマイクロメーターの工場が起こりです」と話しました。

城ホール近
くに水門が

 大阪城ホールの北西裏手の川岸に、高さ7㍍、幅13㍍、奥行11㍍の花崗岩造りアーチ型水門が残っています。
 大阪砲兵工廠設立当初は、材料の搬入や製品の輸送を水運に頼っており、1871(明治4)年に平野川(第二寝屋川)に水門を設けてスロープをつけ、荷揚げや積み込みをしていました。1885(同18)年には、構内に鉄道を敷いて蒸気機関車を走らせ、1896(同29)年に国鉄城東線の線路を引き込み、鉄道が輸送の主流を占めるようになると、やがて水路は埋められ、門だけが残されました。

大阪城ホールの北西裏手に残る「荷揚げ門」

大阪城ホールの北西裏手に残る「荷揚げ門」

化学分析場
と〝鉄の塊〟

 現在の「太陽の広場」から南一帯にかけ、火砲や弾丸、器材、鉄材などの工場が立ち並んでいました。いまはわずかに旧筋鉄門の東側に守衛所などに使われた建物と化学分析場だった建物が残っています。
 化学分析場の建物から少し東へ行くと、道沿いに不思議な鉄の塊が置かれています。長さ5㍍、幅2㍍、高さ50㌢㍍ほどの小舟のような形で、上面がくぼんでいます。1941年時点ですでに苔が生えていたとされます。砲兵工廠内には数多くの炉がありました。いまは公園の樹木の下に埋もれているといいます。

鉄の塊。いったい何を製造する計画だったのか…。後ろのレンガの建物が化学分析場だった建物

鉄の塊。いったい何を製造する計画だったのか…。後ろのレンガの建物が化学分析場だった建物

師団司令部
庁舎込みで

 大阪市立博物館=閉鎖=に転用された、フランス・ノルマンディー地方の古城の意匠をもとにデザインされた建物。1931(昭和6)年、天守閣とセットで建設されました。
 豊臣秀吉が築いた大坂城は、大坂夏の陣で徳川方の攻撃により焼失し、その後に徳川幕府が再建しましたが、その天守閣も1665(寛文5)年に落雷で燃えてしまいました。1928(昭和3)年に、大阪市議会は本丸一帯の市民公園化と天守閣復興を議決しますが、陸軍との折衝で、師団司令部庁舎を新築して軍に寄付することを条件に認められました。150万円の目標だった建設資金は、市民の寄付だけで超過達成。うち80万円が司令部庁舎の建設に充てられたとされています。大阪城minpou

庭園近くに
兵器補給廠

 大阪陸軍兵器補給廠の煉瓦造りの塀と門柱が、西の丸庭園の入口前辺りに残ります。兵器やその材料の保管、修理などにあたり、現在の西の丸庭園一帯15万平方メートルに、多数の倉庫がありました。堀の内側は現在、大阪城公園事務所の詰め所になっています。

兵器の保管や修理にあたった陸軍兵器補給廠の塀と門柱

兵器の保管や修理にあたった陸軍兵器補給廠の塀と門柱

中国の狛犬

 京橋口近くにある狛犬は、1938(昭和13)年ごろに中国から送られてきました。購入したものなのか略奪したものなのかは分かりません。
 戦時中は、近くに大阪国防館という戦争資料館があり、戦意高揚の役割を持っていたとみられます。戦後、中国側が日中両国の友好を願って大阪市に寄贈しました。

中国で製造された狛犬

中国で製造された狛犬

終戦前日の
空襲で被弾

 天守台は1945(昭和20)年8月14日の空襲で被弾しました。西南隅はえぐられた部分を補強し、板状の石を張って修復されています。東北隅の石垣がずれています。下の方には焼け跡が残ります。
 天守閣から山里丸に降りた左側の石垣に、機銃掃射の痕が残ります。爆弾の破片でついたものとする意見もあります。
 南外堀の石垣上には、かつて7つの櫓が建っていましたが、現在は一番櫓と六番櫓しか残っていません。5番目の櫓台の西側に面した石垣に、機銃掃射の痕らしいくぼみがあります。

天守台・東北隅のずれた石垣

天守台・東北隅のずれた石垣

山里丸の機銃掃射あと

山里丸の機銃掃射あと

軍刑務所跡
に鶴彬の碑

 軍隊の中で罪を犯した軍人が収容される大阪衛戍(えいじゅ)監獄(のちに陸軍刑務所として現在の東大阪市へ移転)があります。その跡地にサルスベリの木と「暁をいだいて闇にゐる蕾 鶴彬」と書かれた碑があります。
 反戦川柳作家として知られる鶴彬は、かつて治安維持法違反の罪で軍法会議にかけられ、大阪衛戍監獄に収容されていました。
 鶴彬は1909(明治42)年生まれ。28年にプロレタリア川柳を提唱し、故郷に全日本無産者芸術連盟(ナップ)の支部を設立しました。30年に徴兵検査に合格し、第9師団歩兵第7連隊に入営しますが、同年暮れに日本共産青年同盟の機関紙「無産青年」の所持が見つかり、軍法会議にかけられました。
 鶴彬は「手と足をもいだ丸太にして返し」「タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう」などの作品を残しました。「軍法会議はいまの憲法で禁じられています。ところが自民党の改憲草案では設置するとされている」と森田さん。

鶴彬の川柳碑。平和を願い反戦を唱えた国民がなぜ犠牲にならなければならなかったのか?

鶴彬の川柳碑。平和を願い反戦を唱えた国民がなぜ犠牲にならなければならなかったのか?

悲惨さ今に伝える
旧真田山陸軍墓地

最初で最大
の陸軍墓地

国内最初で最大の軍用墓地。初年兵や自死した兵士、日露戦争の合葬墓や捕虜の墓も

国内最初で最大の軍用墓地。初年兵や自死した兵士、日露戦争の合葬墓や捕虜の墓も

 1871(明治4)年に設置された、日本で最初で最大の陸軍墓地です。NPO法人「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」副理事長の吉岡武さんの解説・案内で訪ねました。
 墓地内には1873(同6)年の徴兵令施行以前に属する兵士の墓碑にはじまり、西南戦争や日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦を経て、太平洋戦争終結後に設置されたものも含め、約5100基の個人墓碑、日露戦争・満州事変戦病没将兵合葬墓、アジア太平洋戦争の戦病没将兵約8200人の遺骨などを納めた納骨堂があります。
 また、徴用された民間人や捕虜となった清国兵、ドイツ兵の墓碑、訓練中の事故死や平時の病死者の墓碑もあります。「国事に殉じた」人々のみを「英霊」として神格化する靖国神社とは大きく異なる点です。
 いまの堺市東区にあった南河内郡野田村の墓があります。戦後に建てられたものです。墓参りがしやすいよう背中合わせに立つほかの墓と違い、細い通路に向かい合わせで階級もバラバラです。「小さいころから顔なじみで、死んで極楽へ行ってもみんな一緒だということを表している」と吉岡さん。
 納骨堂の調査をした際、骨壷の中はサンゴや石、または空というものもありました。1944(昭和19)年ごろの最も死者が多かった時期のものです。ある母親は息子の遺骨を受け取り、夜中に箱を開けると中は空っぽ。悔しさで泣き叫んだと言います。
 「南方へ行ったが敵を打つ弾も食べ物もない。戦うどころではなく、多くが餓死した。国力もないのになぜブレーキがかけられなかったのか。これを学ぶために活動しています」と吉岡さんは話しました。
 墓地の近くに住んでいた吉岡さんは、1945年6月1日に空襲で焼け出されました。当時7歳。
 「大火事なら風下に広がっていくが、焼夷弾は違う。いっぺんに周り全部が火の海になる。ものすごい火気で、背負っていた1歳半の妹の足は水ぶくれで、倍ほどに腫れていた」
 防空壕の中で聞く爆弾投下の音は、「夕立のような音」だったと言います。1トン爆弾が着弾すると、道路に大きな穴が開き、上下水道から水が噴水のように吹き出し、しばらくすると池ができました。
 吉岡さんは「戦場は悲劇ばかり。いよいよ『清き一票』が大事な世の中になってきた。史実を勉強し、次の世代の人が同じ間違いをせず、平和な日本を続けてほしい」とわたなべさんに話しました。

多くの人と
手をつなぎ

 戦跡巡りを終えたわたなべさんは、「戦争できる国になったら産業も軍事中心に回っていきます。教育や若者の働き方、税金の使い方など、戦争することを軸に社会が変えられていってしまう。戦争する国づくりを止めるため、多くの方と手をつないで頑張りたい」と話しました。

8千柱以上の骨壺が納められた納骨堂

8千柱以上の骨壺が納められた納骨堂

ゆいさんがめぐった戦跡

ゆいさんがめぐった戦跡

 

(大阪民主新報、2015年8月9日・16日付より)

 

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