時代をつないで
大阪の日本共産党物語
第5話 治安維持法
「主権在民」を叫べば「死刑」に
1925年。普通選挙法と同時に、制定されたのが「治安維持法」でした。
「主権在民」「戦争反対」を主張すれば、最高刑は「死刑」(1928年の改悪)とする希代の悪法です。侵略戦争の敗北直後にいたるまで、戦前日本の民主運動、進歩的で良心的な思想と運動を弾圧と拷問で覆いつくします(弾圧法は他に「国防保安法」「軍機保護法」など多数がはりめぐらされました)。
直接弾圧を担ったのは治安維持法に先立って全国に設置された「特高」(特別高等警察)。その矛先は共産党員はもとより、社会民主主義者、進歩的な学者、文化人、宗教者、平和を求める多くの人びとでした。
「治安維持法」による逮捕者は数十万人、これまで判明しただけでも送検された人7万5681人(起訴6550人)、警察署で虐殺された人93人、刑務所・拘置所での虐待・暴行・発病などによる獄死者は400人にのぼります。
ドイツ、イタリアをはじめ、世界各国ではナチスやファシズムとたたかった犠牲者への補償がすすめられています。「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」(治維法同盟)は、日本での治安維持法犠牲者にたいする国家賠償を求め、長年にわたる運動を続けています。大阪の治維法同盟(松本洋一郎会長)は、治安維持法等で犠牲になった方について、大阪で検挙された方のみならず、他府県で弾圧を受けた大阪出身者を含め千二百名余、一人残らず全員の名簿作りを数年がかりのプロジェクトとしてすすめています。
加えられた拷問
治安維持法下、特高によって、いかに野蛮な弾圧が加えられたか。
作家・小林多喜二が逮捕されたのは1933年2月20日でした。特高は築地警察署に連行するや否や壮絶な拷問を加え、その日のうちに死亡させます。
その遺体のひどさ――
「毛糸の腹巻になかば隠されている下腹部から両足の膝がしらにかけて、下っ腹といわず、ももといわず、尻といわずどこもかしこもまるで黒とべにがらをいっしょにまぜてぬりつぶしたような、なんともかともいえないほどものすごい色で一面染まっている。そのうえ、よほど大量の内出血があるとみえてももの皮がばっちりと、いまにも破れそうにふくれあがっている。そのふとさは普通の人間の二倍くらいもある。さらに赤黒い内出血は、陰茎からこう丸にまでながれこんだとみえて、このふたつのものがびっくりするほど異常に大きくふくれあがっている。…赤黒くふくれあがったももの上には、左右両方とも釘か錐かを打ち込んだらしい穴の跡が十五、六カ所もあって、そこだけは皮がやぶれて下から肉がじかにむきだしになっている」(江口換『戦いの作家同盟』・下)
「特高」は、女性にたいしては全裸にして取り調べるなど、性的虐待を平然と加えました。
治安維持法は「京都学連事件」(1926年)が適用第一号とされていますが、植民地支配下の朝鮮半島ではその前年、第一次朝鮮共産党事件で66人を検挙します。朝鮮半島における治安維持法の残酷さは、本国ではついに下されなかった「死刑」判決を、朝鮮半島では独立を求める活動家など59人に下し、実行されたことにもあらわれています。
大阪の3・15事件
1928年3月15日、治安維持法と特高警察による全国的な一斉検挙の大弾圧事件が起こされます。大阪でも党、評議会、日農、水平社、全日本無産青年同盟の活動家など400人余が検挙され、春日庄次郎をはじめ99人が起訴されました。続いて4月には、評議会、労働農民党、全日本無産青年同盟を解散させました。(次回は「山宣のたたかい」です)
(大阪民主新報、2020年8月9日、16日合併号より)