時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第4話 評議会と労働農民党

党の再建

日本労働組合評議会本部跡と周辺地図(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟『不屈』大阪版1993年2月15日号より)

日本労働組合評議会本部跡と周辺地図(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟『不屈』大阪版1993年2月15日号より)

 「解党」という誤った方針をのりこえ、1925年から大阪でも共産党再建がすすめられます。 このころ労働分野では、1922年結成の労働組合の全国組織「労働総同盟」が活動していました。ところが1926年5月、鈴木文治、西尾未広らが左派の一連の組合を除名する暴挙にでて、真っ二つに分裂します。除名された25組合が中心になり、32組合1・3万人によって「日本労働組合評議会」が結成されました。 「組織と闘争とに依(よ)って資本の搾取(さくしゅ)に対抗し、労働条件を維持改善し、生活の安定と向上を計り労働階級の完全なる解放と合理公正な社会生活の実現のために戦うことは組合運動の目的である」 その綱領にこう記した評議会は、「わが国左翼労働組合運動の最初の団体」(谷口善太郎『日本労働組合評議会史』)――日本における階級的労働組合の最初の全国組織でした。「関西の左翼派は、関東におけるよりもはるかに根強く」(同前)、その本部は27年6月に東京に移転するまで、大阪の此花区玉川町4丁目(いまの福島区野田3―13―22 JR環状線野田駅近く)におかれました(地図参照)。評議会は2年後には59組合、組合員3万5080人を数え、総同盟を上回ります。

単一無産政党

 この時期、1925年に制定された普通選挙法にもとづく普通選挙に備え、単一無産政党(「無産」とは労働者などのことです)の運動が盛り上がりました。日本共産党は、労働者、農民の民主主義的な統一戦線組織の役割を果たし、合法的な政治活動も可能にするものとして単一無産政党の結成を推進しました。 1925年8月、日本農民組合、総同盟、評議会、全国水平社など16団体で「無産政党組織準備委員会」がつくられ、12月、「農民労働党」が結成されます。提唱者の日本農民組合も大阪に本部が置かれ、大阪は農民労働党結成準備の中心舞台でした。天皇制政府は、農民労働党は「共産主義の実行を企図した」ものとして、その3時間後に「結社禁止」の弾圧を加えます。 しかし、単一無産政党を求める運動は止まず、26年3月に「労働農民党」が創立されました。「日本政党史に一新時代を画すべき労働農民党結党式は五日午後二時大阪西区土佐堀青年会館で花々しく挙行された」(「大阪朝日」1926年3月6日付)。その創立宣言には、「普通選挙の実施は我国の政治に一大革新の機会を斉した」「千載一遇の重大なる時期」とうたわれます。

「27年テーゼ」にそって

 1926年12月に日本共産党の第3回大会が開かれ、27年7月には綱領的文書「27年テーゼ」がつくられ、大阪の党組織の前進が始まります。9月には大阪地方委員会(冬野猛夫委員長)が組織され、28年には、藤永田造船、栗本鉄工所、大阪鉄工所、東洋紡績、住友鋳鋼所、砲兵工廠、市電春日出車庫、同今里車庫などでの党建設に取り組んだといわれます。 1928年2月1日に党機関紙「赤旗」(せっき)が創刊されます。その2月、普通選挙法による最初の総選挙を迎えた大阪の党は、労働農民党から大阪一区に立候補した野田律太(評議会委員長)、大阪四区に立候補した大橋治房を推してたたかいました。 選挙戦に共産党が公然とのりだし、国民がその存在を知ったことは天皇制政府に大きなショックを与えます。 その党に牙をむいて襲い掛かってきたのが、最初の全国的大弾圧、「3・15事件」でした。(次回は「治安維持法」です)

(大阪民主新報、2020年8月2日号より)

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