時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第6話 山宣のたたかい

3・15の法廷闘争 

 3・15事件の公判は1928年11月21日大阪地裁で開かれます。傍聴は禁止でした。弁護団に着いたのは布施辰治、小岩井浄、佐々木健助ら、東京からかけつけた自由法曹団員らを含む十数人でした。冒頭から布施は「分離公判」ではなく、「東京の事件と併合されるべき」と主張。裁判官忌避(きひ)要求や公判公開要求など法廷戦術を駆使してたたかいます。これにたいして当局は、布施にたいする懲戒(ちょうかい)裁判を起こし、東京弁護士会から懲戒除名を受けます。3・15事件では大阪の弁護士2人も逮捕。権力の弾圧はむきだしでした。

「われらは赤旗を守る」――敢然と  

 天皇制政府は1928年、「緊急勅令」(ちょくれい=天皇の命令)によって、治安維持法を改悪し、「国体変革」を目的にした結社とその指導者に対して最高刑を「死刑」とします。
 これにたいして帝国議会のなかで敢然とたたかったのが山本宣治でした。
 山宣。1928年の総選挙で京都2区から当選した労農党衆院議員です。山宣は京都帝大講師として、労働学校講師として、労農党結成や「政治的自由獲得同盟」などの大阪での集会では、しばしば議長役を担い、大阪にも深い足跡を残します。
 翌1929年3月、第56回帝国議会に治安維持法改悪が事後報告され、その承諾が問われた際、山宣は反対討論を準備します。しかし、討論打ち切り動議によって発言が阻まれた5日の夜、東京の宿舎で右翼テロリストによって刺殺されます。
 山宣はその前日、天王寺公会堂で、第2回全国農民組合の大会に臨んでいました。その演説――「いまや階級的立場を守るものはただ一人だ。だが僕は淋しくない。〝山宣〟ひとり孤塁を守る。しかし背後には多数の同志が」(ここで中止を命じられた)は、実は「孤塁」ではなく、「われらは赤旗を守る」でした(戦後最初の大阪の共産党地方議員・西尾治郎平による)。そのまま言葉を残すと削除されると、議事録には「孤塁」と変え、大山郁夫によって碑文にも刻まれました。

9対7      

 しかし、山宣の闘いは、当時にあっても「孤塁」ではありませんでした。治安維持法改悪承認案に、帝国議会のなかで170人が「反対」(賛成249人)しました。なかでも大阪選出の国会議員は9対7で反対多数でした(反対したのは一松定吉、勝田永吉、鈴木文治、武内作平、田中萬逸、廣瀬徳蔵、桝谷寅吉、松田竹千代、柴安新九郎。鐘紡の武藤山治らは賛成、西尾末廣は棄権でした)。反対理由は「緊急勅令にせず、臨時議会を召集することも可能であった」などさまざまでしたが、「政府の非違取締(ひいとりしま)りに対する態度には、甚(はなは)だ公平を欠いている」「司法の面からも危険」(廣瀬徳蔵)などが議事録に記されています。

戦後の反動潮流の「源流」として  

 治安維持法は、1945年10月15日、ポツダム宣言にもとづく勅令によって廃止されます。12月29日、「政治犯等の資格に関する件」によって、治安維持法等の犠牲者にたいしては「其(そ)の刑の言い渡しを受けざりしものと見做(みな)す」とされました。
 しかし、戦後の日本政治で、戦犯たちが政権中枢に「復権」するなか、治安維持法のもとで弾圧に狂奔した「特高官僚」もまた、戦後に生き続けました。柳河瀬精『告発 戦後の特高官僚』は、多喜二虐殺を指揮した特高幹部が戦後東京都北区の教育長を担うなど、「特高官僚」たちが戦後の国会、各省庁、地方政治、民間企業など、各界で要職を占めた事実を克明に追います。それは「侵略戦争賛美」と一体の逆流、反動潮流の源泉となってきました。
 その一掃は、山宣らのたたかいをひきつぐ、いまの私たちに課せられています。(次回は「侵略戦争反対のたたかい」です)

(大阪民主新報、2020年8月23日号より)

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