時代をつないで
大阪の日本共産党物語
第20話 大阪地方党会議
日本共産党の戦後最初の党会議、第1回大阪地方党会議は1946年1月2日に開かれました。
「日本帝国主義の軍事的敗北を機として、情勢は急転し、天皇制の根幹は震撼し、我党の活動の公然化への有利な条件は獲得された」「今こそ我々は工場経営の中から、農村の中から、勤労市民の中から、民族解放闘争の中から我々の組織を更に整備強化すべき必要に迫られた」「全党員諸君! 諸君の闘争の一切の成果を党会議に集中せしめよ」「第1回大阪地方党会議をして、わが党一大躍進の基盤たらしめよ」
年末に大阪地方促進委員会がだした「大阪地方党会議開催について」は、のちに戎谷春松が「疾風怒濤の状態」とのべた情勢展開のなか、党建設への意気込みにあふれたものでした。
続く第2回党会議は3月10日。この時点での大阪の党員数は440人。第1回大阪地方党会議から4倍半に増えます。
府内の党組織は次の12地区に編成されます。
阪南(堺以南方面)▽堺(堺方面)▽尼崎(尼崎方面)▽河内第一(中河内、南河内、布施方面)▽河内第二(守口を除く北河内方面)▽東第一(東成区、生野区方面)▽東第二(守口、旭区、都島区、城東区方面)▽淀川(西淀川区、大淀区、福島区方面)▽北摂(吹田、三島、豊能、東淀川区)▽北(北区、東区、西区一部方面)▽大正(大正区方面)▽南(阿倍野区、南区、天王寺区、浪速区、西成区、住吉区、東住吉区方面)
党事務所は旭区赤川町から西成区今池町の西成ビルに移転しました。
戦後最初の総選挙
46年4月10日、戦後最初の総選挙の投票が行われました。
「三名連記制」のため、党は、大阪1区(定数7)で3人(志賀義雄、岩井弼次、兼島景毅)、大阪2区(定数12)で3人(横田甚太郎、加藤充、北井武雄)の公認候補をたてました。党史上初めて公然とたたかった選挙戦。「天皇制廃止」「主権在民、人民共和政府樹立」「民主憲法制定」「原則7時間労働制」などをかかげ、演説会に参加した労働者のあいだで『アカハタ=AKAHATA』(46年1月~47年7月までこの呼称でした)がとぶように売れ、その場で読者が組織されたといいます。結果は、大阪全体で14万6千票余(得票率6・4%)を得て志賀義雄が当選、全国で徳田球一・野坂参三ら5人が当選しました。
当時、総司令部民生局のウィリアム国会担当課長は、共産党が「民主主義的な言葉をしゃべることのできる唯一の人種」であり、「唯一の元気のいい党で大衆をワーッといわすことのできる政党」と称賛したといいます(週刊新潮編集部『マッカーサーの日本』)。
第3回地方党会議
46年10月20日に第3回大阪地方党会議が開かれます。この時までに細胞(いまの支部)数は165、党員数は2千人に達しました。地区委員会は東西南北の4地区に再編されます。
その報告を見ると、党組織の実情を率直にのべています。たとえば機関紙「アカハタ=AKAHATA」について、「財政難である。…紙代の回収は確実におこなってゐない。輪転機1台あるも財政活動の重大性を痛切に感ずる」「党員は無料にて持ち帰り又は弁当箱包に利用すること等は厳禁すべきだ」と。
党会議は志田重男、岩本巌、戎谷春松、下司順吉、真殿久治、山田六左衛門、横田甚太郎の7人を地方委員に選出しました。
11月には、事務所を南区北桃谷町に移転します。(次回は「産別会議、民主運動の前進」です)
(大阪民主新報、2020年11月29日号より)