時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第28話 綱領論争

綱領草案の全党討論のため出された『前衛』の別冊『団結と前進』1957年10月1日号

 日本共産党は1958年に開いた第7回党大会から、61年の第8回党大会にかけて、全党的な綱領問題での大討論を展開します。
 中央では綱領問題小委員会が29回ひらかれ、中央委員会総会でも3回、計22日間にわたって徹底的におこなわれました。当時、綱領草案反対者も、発言は全面的に保障され、61年3月の中央委員会総会だけでも、反対者の1人は47回、もう1人は68回の発言をおこないました。
 全党討論のために『団結と前進 別冊前衛』が5号にわたって発行されました。大阪からも、府委員会、地区委員会、細胞(いまの支部)からも多くの投稿がありました。

大阪府党会議を前に

 第8回党大会を前に、綱領草案に反対していた春日庄次郎らが、党の内外に中央委員会批判の声明をだして、公然と党の破壊活動にのりだします。これに当時大阪府委員長だった山田六左衞門、副委員長だった原全五が同調します。第18回中央委員会総会は、彼らを除名処分にします。
 第8回党大会は、彼らの態度をきびしく批判し、満場一致で綱領を確立しました。「脱党声明」で春日らは「党の3分の1はとれる」とのべましたが、党大会の場で彼らに同調するものはゼロでした。
 大阪府委員会が、山田、原らによって受けた打撃は大きいものがありました。第8回党大会前の第15回府党会議では、府委員会総会途中に春日・山田らに同調する府委員4人が突然「府委員辞任要望書」をつきつけて退席。その後「春日意見書」や「われわれの態度」なる文書を党内外に配りました。
 第8回党大会後に開かれた第16回府党会議は、下司副委員長が報告、中央委員会から松島治重幹部会員が出席し、あいさつしました。
 「全国のどこの党組織も反党分子とのたたかいをすすめねばならないことを強調しているが、しかしこのように大きな損害をうけた党組織はなく、大阪が全国で最大ではないか」「府委員会の主要な部署を反党分子、修正主義者がにぎり、かれらは大経営における党建設と未組織労働者の組織化には何らの努力を払わず、ひどい損害を与えていた」「我々は彼らに荒らされ、たち遅れている」

松島治重府委員長のもとで      

 こうした大阪府委員会にたいし、中央委員会は、「特別の援助」――一つは大阪の政治新聞発行についての援助(のちの「大阪民主新報」創刊につながります)、いま一つは幹部会から人を派遣して直接援助することを決めました。「日本の人民と党にとって革命闘争の拠点である大阪。府党にはなみなみならぬ期待をかけている」と。
 この府党会議で松島幹部会員を府委員長、下司順吉を副委員長とする新しい体制がスタートします。このもとで60年代の安保闘争と日本共産党建設、ソ連・中国による干渉、「解同」による無法などとの激しいたたかいが展開されていきます。
 1994年5月、松島が逝去し、9月に村上弘、緋田吉郎、定免政雄、菅生厚の歴代府委員長のよびかけで「偲ぶ会」が開かれました。下司は、当時をふりかえり、第8回党大会後、誰を府委員長にするか。その数年前から原則性と弾力性を兼ね備えたすぐれた指導力、正しいことをいつもおだやかに、説得力をもって話す高い品性が尊敬をあつめていた松島を迎えたいと希望が広がっていた。9年間にわたって、大阪府委員長の大任をはたした。「松島さんが残された業績は、その後の大阪府党組織のめざましい発展のなかに生きつづけています」と語りました。(次回は「60年安保」です)

(大阪民主新報、2021年1月31日号より)

 

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