時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第39話 「解同」の無法・利権あさりとのたたかい

大阪市議会、八尾市議会で      

共産党府委員会が中央公会堂で開いた集会。6千人が参加し、入れなかった人は周辺で気勢を上げました。

 1969年の「矢田問題」にたいし、日本共産党大阪市議団は市と市教委に強く抗議し、教育の安全と教育現場の正常化を求めました。これに対し、「解同」府連は6月21日、大阪市議会議長宛に日本共産党市議団7人の「懲罰要求」をだします。7月7日には、八尾市で共産党の斉藤俊一議員が西郡の同和住宅入居問題で質問しようとすると、「解同」が大動員して市議会を恫喝。これをはねのけて代表質問した斉藤議員を各会派に働きかけて「除名」させるという暴挙にでました(翌年末、知事「審決」で除名は取り消されます)。
 大阪市議会で同じ企ては許さないと、共産党府委員会は7月21日、中之島中央公会堂で「共産党議員の懲罰反対、大阪市議会と議会制民主主義を守る大阪決起集会」を計画します。ところが、公会堂を管理する市教委が、「解同」の要求に屈して、前日に会場使用許可を取り消します。30人の弁護団がこれを提訴するとともに、執行停止を申し立てます。大阪地裁は21日午後、執行停止を決定。市教委の抗告も集会開始直前に大阪高裁が棄却しました。午後6時からの集会には6千人が参加し、会場外にあふれ出て大成功します。「懲罰」策動は粉砕されました。

吹田二中事件   

 教育の現場では72年6月、吹田二中に「解同」光明町支部長の高田登美雄らが大動員し、「解放教育」に疑問を呈した女性教員を監禁、糾弾。抗議する同僚教師の阿部誠行に何日も暴行を加えます。「解同」に屈服した吹田市教委は、5人の教師を強制配転します。阿部らはこの不法を提訴し、高裁では「解同」と市教委の不法が断罪されました。
 「『そこのけ、そこのけ、解同がとおる』といわれた。その不法に、理論面でも、運動面でも、共産党が大きな役割を果たした。あの時たたかってなかったら、いまどうなっていたかと思う」――後に共産党大阪府議を務めた阿部は振り返ります。

大衆的裁判闘争の勝利        

 「矢田問題」では最終決着は80年代になりましたが、不法監禁についての刑事裁判、市教委による不当配転の取り消しを求めた民事裁判ともに勝利します。大阪市に賠償が命じられ、「木下あいさつ状」は「同和教育に対する自主的な取組みを阻害するものであると断定することもできない」と明確でした。
「矢田問題」以来、「解同裁判」を40年にわたって担った弁護士石川元也は語ります。
――「解同」の暴力糾弾や利権あさりに対する全国的な裁判闘争の勝利判決の積み重ねで、ついに87年、政府も「運動団体(「解同」のこと)の行き過ぎた言動が同和問題の解決に新たな障害となっている」ことを認め、「同和問題について自由な意見交換のできる環境づくり、行政の主体性の確立」などを柱とする「指針」を発し、のちの同和行政の全面廃止への道筋をつけた。
 暴力とともに、大阪市では「幽霊バス問題」――同和地区用のバス購入補助金として536万円をださせながらどこにもバスがなかった――をはじめ、巨費を投じたデラックス小学校、解放会館建設などの実態が次第にあらわになっていきます。
 「解同」の無法、利権あさりとのたたかいは、70年代にかけての一大政治問題でした。これに真っ先に声をあげ、勇気をもってたたかいぬいたのが日本共産党でした。そこに立場を超えた信頼が寄せられました。(次回は「60年代の党建設」です)

(大阪民主新報、2021年4月18日号より)

 

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