時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第41話 公害反対闘争

「自共対決」の時代 

 1970年代にはいり、その幕開けとなった京都府知事選挙で、自民党は「自共対決」を叫び、日本共産党を「七○年代の主敵」と呼びました。日本共産党は70年7月の第11回大会で革新統一戦線結成による民主連合政府の展望を明らかにしました。

大阪から公害をなくす会       

関西電力の多奈二火力発電所建設に反対する岬町の住民=1970年12月

 大阪で直面していたのは公害問題でした。
 堺・高石市の臨海コンビナートによる公害反対のたたかい、岬町の多奈二(多奈川第二)火力発電所建設反対の運動などを合流して、「大阪から公害をなくす会」が71年2月に結成されます。府下56団体が手を結ぶものでした。
 その初代事務局長・芹沢芳郎は「公害問題というのは、府民が自分の体で感じ、恐怖を抱かせるものやった。理屈より五感で、市民の怒りが広がり、高石のフレアースタックの大火災とか、問題が起こるごとに運動のうねりが起きた」と当時をふりかえります。そして、大阪の公害反対闘争では「政党の役割が大きかった」と。
 70年9月2日、日本共産党大阪府委員会主催による「大阪から公害をなくす府民運動を呼びかける決起集会」が中之島公園で開かれました。それは公害に反対するはじめての全府的な集会でした。村上弘府委員長は、「公害を野放しにする大企業、大阪府・市に府民の要求をつきつけ、府民運動を前進させることを願って共産党は先頭をきり、集会を開いた」と語りました。
 府委員会は「大気汚染から府民の生命と健康を守り、青空と太陽と、きれいな空気を1日も早くとりもどすために」などの「提言」をあいついで発表します。「公害の防止と根絶をねがうすべての人びと、科学者、専門家の人びとと、労働組合、民主団体が国と自治体、企業にたいする要求をたかくかかげて集会に結集し、あらたな一大府民運動の出発点をともにつくりあげることを心からのぞみます」と訴え、社会党、大阪地評などにこの点でも共同をよびかけました。
 「大阪民主新報」では、長期連載「公害とたたかう」で府内各地の公害反対のたたかいをルポで紹介。スモッグ源となっている工場名をだすなど論陣を張りました。

たたかいが政治を変えた       

日本共産党府委員会が主催した「大阪から公害をなくす府民運動を呼びかける決起集会」の後に行われたデモ行進=1970年9月

 府民のたたかいは政治を大きく変えました。「大阪から公害をなくす会」が結成された直後、71年の知事選挙で、「公害知事さん さようなら 憲法知事さん こんにちは」のスローガンのもと、黒田了一知事が勝利、大阪に革新府政が誕生します(次号参照)。革新府政は、公害を発生源で規制する「新ブルースカイ計画」構想を発表し、全国初の大気汚染物質の総量規制方針と「環境管理計画」などの画期的施策を前進させました。
 続く72年の総選挙で日本共産党は大阪で6人全員当選し、全国で39議席を獲得しました。躍進した日本共産党・革新共同議員団は73年4月6日、初の議案提案権行使として、公害対策基本法など公害関係諸法の抜本改正案を国会に出します。発生源での公害防止という目標にそって、公害の最大の元凶である企業にたいしてきびしい責任を課し、厳格な規制をくわえようとするものでした。また「公害委員会法案」をだし、住民参加の公害行政へ、地方自治体に公選制の公害委員会を設けることを提起しました。(次回は「黒田革新府政の誕生」です)

(大阪民主新報、2021年5月2日、9日号より)

 

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