時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第58話 反動攻勢下の衆参同時選挙

 1980年代は日本共産党にとって、きびしい時期でした。そのなかで自民党政治にたいする唯一の革新的対決者として粘り強くたたかいました。

大志ある目標をかかげて       

 その幕開け、1月8日の府委員会総会は、「府党組織の80年代の展望と当面の課題」として、「府内100万の得票、30%の支持獲得」「国会議員、各級地方議会で第一党となる」「革新府政の奪還をはじめ、革新自治体の前進」「衆院選では5人区、4人区は複数議席、大阪府、市会選挙も4人区以上では複数議席を」と大志ある政治目標をかかげます。また、「階級的ナショナルセンターの確立をめざす労働組合運動の抜本的前進をはじめ、大衆運動における自覚的民主勢力の陣地の拡大」を柱の一つにしました。

戦後第2の反動攻勢

 日本共産党、革新勢力の躍進に直面した支配層は、「戦後第2の反動攻勢」(6月、宮本顕治委員長記者会見)と特徴づけた戦略を展開します。それは大がかりな反共宣伝を軸に、公選法改悪によって大量宣伝の手段を封じ、党現職のいる衆院選挙区の「分区」、「企業ぐるみ」選挙の横行など、あらゆる策をめぐらしたものでした。
 一方、社会党は80年1月、公明党との「社公合意」を結びます。安保条約と自衛隊を容認し、日本共産党は「政権協議の対象にしない」と排除するものでした。日本共産党以外の野党はすべて、対米従属と大企業奉仕という自民党政治の枠組みのなかに、組みこまれます。
 大阪では2月7日、「関西財界セミナー」で日向方斎関経連会長が「非常時に備え徴兵制の研究が必要な段階にきている」などと発言します。
 国際面では、79年12月にソ連がアフガニスタンを侵略。国内では「共産党が政権をとれば、アフガンのようになる」などの激しい攻撃がくりひろげられました。
 党は「社会党の右転落と日本共産党」「アフガニスタン問題と日本共産党」などの「クリーン・パンフレット」を大阪で27万冊普及するなど徹底反撃に転じます。

自民党の大勝  

アフガニスタン問題などを利用した反共攻撃が強まる下で行われた衆参同時選。橋本氏、小巻氏、神崎氏の議席を失いました=1980年6月23日

 80年6月22日、戦後史上初の「衆参同時選挙」がたたかわれます。これは参議院選挙を前に、自民党の「党内抗争」が激化。大平内閣不信任案が出された際、反主流派が大量欠席したことで可決され、大平内閣がただちに衆院解散を決めたことによるものでした。
 選挙戦では自民党がアフガニスタン問題を最大限に利用した反共攻撃を前面にし、右転落した社会党なども共産党に集中砲火を浴びせます。
 そのさなか、大平首相が急死します。自民党は「弔い合戦」の名のもとに同情票を組織する異常な集票作戦を展開します。自民党は衆院で前回の248議席から284議席へと、過半数を大きく上回ります。
 この同時選挙で、大阪の日本共産党は衆院では6区神崎敏雄が及ばず、6議席にとどまります。また参院は全国区(小巻敏雄)・地方区(橋本敦)とも議席を失う結果となりました。
 「政治的に重大な意味」(80年6月28日 第5回府委員会総会)。大阪府委員会は、反共宣伝にたいして日常不断に、また府民に受け入れられるよう工夫することの重要性、「なんとかなる」というゆるみがあったこと、衆参同時選挙を担う体制問題など、一つ一つに深いメスを入れ、きびしい総括議論をすすめました。(次回は「大阪革新懇結成」です)

(大阪民主新報、2021年9月12日号より)

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