時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第61話 軍事費削って福祉・くらしに

天神橋筋商店街では看護師らが血圧測定をしながら署名を集めました。この日は全国統一行動日で、府内675カ所で集会、81カ所のターミナルで宣伝が行われました=84年6月14日、大阪市北区内

 80年6月の衆参同時選挙で安定過半数を得た自民党は、翌年3月、「臨時行政調査会」(会長・土光敏夫経団連名誉会長)を設置。それは、老人差別医療制度の導入や、健康保険法改悪、年金制度改悪などで、長期にわたる国民運動でつくられてきた民主的諸制度を一挙に覆そうとするものでした。81年11月、「行革」一括法が日本共産党以外すべての政党の賛成で成立します。
 大阪府党は同年9月に開いた府委員会総会で、臨調答申路線に反対するたたかいに、既存の民主団体や共闘組織が先頭に立って活動するとともに、新しい団体・層に広げるために積極的に協力しようと強調。宣伝の強化・工夫を呼び掛けました。
 大阪府でも、関西財界主導で関西空港計画が動き出す一方で、教育・福祉切り捨ての「臨調行革」が具体化。岸府政が発表した「行政改革の基本的な考え方・素案」(82年12月)では「単なる住民要求追随の発想から脱却」として、中小企業向け制度融資の全面改悪や「地域福祉推進計画」など「自立・自助」の方針を次々打ち出します。それに対する反撃が各地で開始されます。
 大阪生活と健康を守る会連合会は、厚生省が生活保護受給抑制を狙って出した「123号通知」(81年、受給者の身ぐるみ調査への「一括同意書」を指示)の撤回闘争を開始。自治体労働組合との共同闘争を展開し、改悪に一定の歯止めをかけました。

老人医療有料化反対

 82年8月、老人保健法案が自公民新自クによる賛成で可決成立後、大阪では府独自の老人医療有料化反対が闘いの焦点となります。岸知事は同年8月、国が有料化した70歳以上だけでなく、65歳~69歳の府独自制度の一部有料化を決め、9月府議会に提案。それは「福祉は絶対に後退させない」との知事選での公約に違反するものでした。
 大阪民医連は、幅広く各界によびかけ「大阪の老人医療無料制度を継続させる実行委員会」を結成するなど反対運動の推進役として奮闘します。この闘いの中で「医療をよくする連絡会」と懇談した大阪府医師会は、9月2日に稲葉博会長が府庁を訪問し「有料化は老人の受診率を下げ、福祉後退になる」と有料化反対を表明。府衛生対策審議会でも「法的にみても福祉の上積みは問題はなく可能」などの意見が相次ぎました。

健保法改悪阻止のたたかい      

雨の中、7千人が参加した大阪各界連絡会の「ゆるすな健保・国保大改悪 6・28府民大集会」。訴えているのは四ツ谷光子前衆院議員(当時)=84年6月28日、大阪市北区扇町公園

 83年8月、政府は健保本人2割負担など医療保険始まって以来の大改悪案を発表。民医連は国民医療防衛の闘いと位置づけ、わずか3カ月で署名13万筆、628団体に申し入れ、12月総選挙で自民党が「白紙に戻さざるをえない」というところまで追い込みます。
 しかし政府は総選挙後の1月に、再び健保本人1割負担等の改悪案を発表。それに対し84年2月、民医連を核とし「医療保険改悪反対大阪各界連絡会」を70数団体で結成。セスナ機で宣伝(堺)や半日休診(西淀川区医師会)、街頭宣伝での血圧測定、大阪駅前・丸ビルの電光ニュースでの宣伝、統一労組懇・民間労組共同行動連絡会の「健保スト」、府医師会も一斉半日休診を決行するなど各地で多彩な運動を展開する中で、ついに国会会期内成立を阻止します。法案は、77日間もの国会会期延長という中曽根内閣の暴挙で8月に成立を許したものの、その後の運動に貴重な成果と教訓を残しました。(次回は「83年、3大選挙での後退」です)

(大阪民主新報、2021年10月3日号より)

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