おおさかナウ

2022年10月08日

『時代(とき)をつないで大阪の日本共産党物語』出版に寄せて
日本共産党大阪府委員会名誉役員・元府委員長 菅生厚さん

このほど出版された『時代(とき)をつないで 大阪の日本共産党物語』に寄せられた各界・各分野からのメッセージを紹介します。

菅生厚さん

 大阪の共産党の足跡と合わせて、自分の足跡も刻んでいるとの思いで読ませてもらいました。
 「50年問題」当時は、府委員長だった山田六左衛門を筆頭に、反党分子が党から脱走する場面に直接ぶつかりました。僕は西大阪地区の専従者でしたが、「うちの地区からは絶対除名者を出さないぞ」と腹をくくり、組織原則を逸脱する者を一人も出さないと頑張って、実際一人も出さなかった。私自身の誇りです。
 もう一つ記憶に鮮明なのは、その後、公害反対運動を相当やりました。ただ、超党派の運動なので、あまり政党色は出さないほうがいいという政治的配慮で、共産党は「公害をなくす会」の加盟団体に入っていませんでした。
 しかし、大阪の共産党が公害問題でどれだけ貢献したかは知る人ぞ知るで、そういう実績が知事選挙に結び付き、「公害知事さんさようなら、憲法知事さんこんにちは」というスローガンでたたかわれ、黒田了一さんが知事に当選しました。長い党生活の中のもう一つの誇りは、この知事選挙でした。
 政治が変われば暮らしが変わるというのは、村上弘元委員長がよく言っていたことですが、それを地でやれてきたという自負心があります。
 71年に黒田さんが革新統一候補として知事に当選しましたが、次の選挙では、社会党・総評が裏切って脱落する。政党としては共産党だけが応援する知事選挙となり、当時、党内外を問わず、僕らの顔を見ると「気の毒やな。とうとう一党でやらないとあかんのか」と、誰も「勝つぞ」とは言わなかった。
 しかし、みんなと一緒に頑張りぬいて、共産党一党推薦の黒田さんが知事になり、国際的に電波が走って衝撃を与えた。そういうことにお役に立てたということは、自分の生涯のもう一つの輝きです。
 私も今年96歳ですが、過去を振り返るだけでなく、これからも前を向いて、皆さんと一緒に頑張っていきたいと思います。(9月24日の出版記念会でのあいさつより)

(大阪民主新報、2022年10月9日号より)

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