おおさかナウ

2022年12月31日

統一地方選まで3カ月
共に歩み未来へつなごう!
日本共産党の不屈の歴史
命と暮らし守りたい!「自由と平和」を追い求めて!

座談会出席者

安田あすかさん (40) 大阪市議会西成区
いぬい友美さん (44) 堺市議会東区
和田まなみさん (32) 豊中市議会
松本まりさん (32) 泉大津市議会

 2023年春の統一地方選挙が3カ月後に迫っています。「命と暮らしを守る政治に」「誰もが人間らしく支え合える社会に」と住民要求を実現し、地方自治体本来の役割を取り戻そうと府内各地で議員・候補者が奮闘しています。50代以下の「真ん中」世代として初めて挑戦する候補者の中から、安田あすかさん(40)=大阪市議会西成区=、いぬい友美さん(44)=堺市議会東区=、和田まなみさん(32)=豊中市議会=、松本まりさん(32)=泉大津市議会=に日本共産党との出会いや選挙に向けた活動と決意を語り合っていただきました。司会は党府副委員長で世代的継承・党建設委員会責任者の能勢みどりさん。

「真ん中世代」候補者座談会(上) (下)はこちらをクリックしてご覧下さい

安田あすかさん

能勢 あけましておめでとうございます。政治や社会の目覚め、日本共産党との出会いについてお話しください。
松本 2020年の党創立記念日に入党しました。その当時「桜を見る会」のスクープが「しんぶん赤旗」発だったと知り、一度読んでみたいと思って電子版の購読キャンペーンに応募しました。それが地元党支部の皆さんとつながるきっかけになりました。
能勢 もともと政治や日本共産党に関心があったのですか?
松本 日本共産党についてはよく知りませんでした。でもネット中継で辰巳孝太郎さん(当時参院議員)の国会質疑を聞き、「私たちに寄り添ってくれる議員がいるんだ」と感銘を受けました。「この人を絶対に再選させたい」と19年参院選では辰巳さんに投票しました。

一緒に社会を変えたいと

いぬい友美さん

松本 リアルではあまり社会運動に加わっていませんでしたが、検察庁法改正案に抗議するツイッターデモに投稿を続けたりしていました。そんな私の思いや生い立ちを時間を掛けて聞いてくれたのが、田立恵子・泉大津市議でした。そして「1人でずっと社会を変えようとたたかってきたんやね」と温かく受け止めてくれたんです。
 そんな言葉を掛けてもらうのは初めてで感動しました。私の人生を肯定してくれる人が目の前にいる、この人たちと一緒に社会を変えたいと心から思って入党を決めました。
安田 私が党に加わったのは18歳の時です。中学生当時、友達にも恵まれクラブ活動も大好きだったけれど、どうしても管理・競争教育になじめず、高校進学をどうしようか悩んだこともありました。
 でも、私には障害福祉の分野で働きたいという夢があったので、私立高校に進学しました。高校生活では、ひとり親家庭でアルバイト漬けになり授業にあまり出席できなかったり、学年が上がるたびに同級生が減っていったりする悲しい現実を目の当たりにしました。「なぜ同じ世代の人がこんな目に遭うの?」と社会の矛盾を感じることばかりでした。
 高校の授業はとても楽しくて、政治や社会の仕組みを学んだり、私学助成の署名運動に取り組む中で、どこに根本原因があるのかが少しずつ見えてきたんです。
 障害のある人の暮らしや権利を守りたい、そして命を無差別に奪う戦争は絶対に嫌だと考えていた私は、戦前の自由にものが言えない時代に堂々と反戦平和を訴えたのが日本共産党だったと知った時、本当に感動しました。「自分もそういう生き方がしたい。自分の気持ちを真っすぐ発言し行動できる人間になりたい」と入党しました。

反戦・平和の不屈の歴史

和田まなみさん

和田 私の入党の原点も「平和」です。高校を卒業して看護師を目指して大学に進んだ直後、18歳の時でした。
 幼い頃に、愛媛県の祖母から戦争体験を何度も聞きました。空襲警報が鳴って避難すると、瀬戸内海を挟んで見える広島の街が、戦火で真っ赤に燃えていたと話してくれました。
 イラク戦争(2003年3月20日開戦)が始まった時、私はまだ小学5年生でした。祖母たちの時代と同じように、世界のどこかで今も戦争が続いているんだと強く認識するとともに、大規模な反戦行動が大阪や日本、そして世界に広がっていくことに、幼心に共感したことを覚えています。
 戦前の日本で侵略戦争と植民地支配に命懸けで反対し、平和のためにたたかった政党が日本共産党だったという歴史の事実は、とても重いですよね。戦後も決してぶれずに平和を追求し、憲法9条を守り生かす運動の先頭に立ってきた日本共産党に入党することに、ためらいはありませんでした。
いぬい 平和って何か当たり前のように感じるけれど、先輩たちのたたかいがあって、いまの憲法9条につながっているのですよね。私も高校時代に、「戦争と平和」や貧困をテーマに研究発表する授業を経験して、それが憲法や9条を守りたいという原点になっています。
 私は高校卒業後、テレビカメラマンを目指して映像専門学校に進み、就職氷河期でしたが、民放キー局の番組制作会社でカメラアシスタントとして、第一歩を踏み出しました。
 華やかに見えるテレビ業界だけど、早朝5時から撮影現場に向かい、その日のうちには帰宅できず、翌々日の深夜3時まで続くようなハードな職場で、休みもあまり取れません。
 東京で就職した当時、関西地区には女性カメラマンは1人もおらず、ステップアップできるか不安いっぱいでした。
 それでも少しずつ責任ある仕事を任せてもらえるようになって、東京で9年、関西で6年ほど、芸能番組や社会事件のニュース報道、政治家の記者会見など、メディアの世界で仕事を経験しました。

いのちと向き合い生きる

松本まりさん

能勢 そこから看護師を目指されるのですね。
いぬい もともと「命を救いたい」と看護師が志望でした。でも、若い時にしかできないことを優先しようとテレビ業界に飛び込んだのですが、その間に救急法資格を取得して、豪雨被害の岡山県真備町へ災害ボランティアにも参加しました。
 41歳で看護師資格を取得しましたが、新任1年目の20年に新型コロナ感染が始まって、所属していた病棟は閉鎖され、病院全体がコロナ対応に追われ、息が詰まるような壮絶な体験をしました。
 軽症者向けの宿泊療養施設や保健所でも、コロナ関連の業務に就きました。また、在宅高齢者の暮らしを支えたいと、訪問看護や特別養護老人ホームなど、介護の現場でも仕事をしてきました。
能勢 多くの現場で命を守り支えようと向き合ってこられたのですね。
いぬい 保健所で新規感染者の状態を把握する「ファーストタッチ」を担当した時は、基礎疾患などハイリスクの陽性者を優先して、入院・治療の必要性を判断していきますが、陽性者が急激に増えた時は、病院も宿泊療養施設もベッドの空きが全くないんです。
 悔しくてたまらなかったのは、自宅で入院待ちをしていた方が、次の日に亡くなったことです。人手不足の現場で、スタッフが必死にもがいても限界があります。保健・医療体制がもっと手厚ければ、救えた命があるはずです。
 そんな現場の声を行政に届けたい!政治を変えたい!と強く思うようになりました。そして今年の3月11日に入党し、6月に立候補要請を受け、母(乾恵美子市議)のバトンを受け継いで頑張ろうと決意しました。

「二重行政」で病院閉鎖に

安田 私は夫と3歳と5歳の娘と暮らしています。17年の初産は、大阪市立住吉市民病院でお世話になりました。臨月間近に妊娠高血圧症と診断され早期入院し、スタッフに支えられて出産し、退院後も助産師さんやワーカーさんにフォローしていただき、心強かったです。
 住吉市民病院は、未受診妊婦やシングルマザーの出産、医療ケアの必要な重症心身障害児の短期入所など、健康リスクを抱える子どもと親にとって、かけがえのない機能を併せ持った病院でした。それを維新は「二重行政」だと廃止を決めました。出産当時、院内には「2018年閉院」の張り紙があって、「こんなにみんなが必要とする病院がなぜ?」と怒りを感じていました。
いぬい・和田 本当にひどいよね。
安田 新型コロナ感染症が広がった20年4月、生後8カ月の次女が突然高熱を出しました。受け入れ病院が見つからず、4日間自宅待機した後で細菌感染と診断されて、1週間緊急入院しました。受け入れ病院を必死に探し続けたあの時の恐怖は、今でも忘れられません。もし住吉市民病院があったらと本当に強く感じました。
 17年間、福祉施設で働き、障害のある利用者たちの暮らしと命を守り、お互い支え合って生きられる地域社会を実現したいと頑張ってきました。それは私にとって生きがいでもありました。
 深刻な人手不足の中で、福祉の現場を離れるのはとてもつらいけれど、命を守り、暮らしを支えるという行政の責任を果たさせるため、みんなの声を大阪市政に届けたいと思って、日本共産党の候補者となる決意をしました。

政治変えようと共に行動

和田 維新政治の場当たり的なコロナ対策は、医療現場に多くの矛盾と困難をもたらしました。検査体制を拡充しベッドの確保が必要なのに、自治体としての責任は果たされてきませんでした。
 いま医療の現場では、コロナ第8波とされる感染の波が広がっています。ナースたちは手厚い看護をしたいと思っても、時間も体制も保障されません。長時間労働になる「二交替制」シフトで休みが取れないまま、夜勤の「入り・明け」「入り・明け」が何回も続くと、心も身体も追い詰められて、本当に怖いんです。
 こんな状況をつくり出したのが、国の医療費抑制政策と維新政治だと思うと、一日も早く変えなければなりませんよね。医療や暮らしの現場の切実な声を届ける共産党の役割は大きいし、同じ世代の人たちにも、一緒に考え行動し政治を変えようと呼び掛けたいと候補者になることを決めました。

党と出会い新たな一歩を

松本 大学生の時の私は、心の底から自分が不幸な人間だと思っていました。幼少時に両親が離婚し、母の再婚相手によるDV被害が起き、きょうだい3人は父親の元で暮らすことになりました。
 14歳だった私は、一変した生活環境を受け入れることができず、父との不仲や経済困窮を1人で抱え込み苦しんでいました。祖父母の援助を受けて、月額4万9千円の奨学金を借りながら大学に進学しましたが、3回生の時、健康保険が短期証になり、最後は無保険になって、医療も受けられなくなったこともありました。
 大学卒業後に少しずつ学ぶ中で、自分の不幸は社会がつくり出したものだったことに気づき、ずっと社会を変えるために活動したいという気持ちがあったんです。
 だから29歳で日本共産党に入党して、私の人生は大きく変わりました。街頭宣伝や署名集めなど、1人ではできないことが、みんなと一緒にできるようになって、とてもうれしかったです。
 誰からもケアされず、孤独に陥っていたかつての私のような人たちに、「共産党はここにいると」と語り掛けて、みんなで力を合わせて歩める社会を実現したいと思いました。だから、私は泉大津市議選の候補者になると決めました。
(次回に続く)

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(大阪民主新報、2023年1月1日・1月8日合併号より)

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