おおさかナウ

2015年09月13日

わたなべ結のあの人に会いたい
治安維持法の犠牲者 西川治郎さん

 

戦争法案を阻止しなければ
過去学び憲法の大切さ実感

わたなべ結DSC_4251minpou 西川治郎さんminpou 治安維持法違反で2度逮捕された経験を持つ106歳の西川治郎さんを、日本共産党のわたなべ結参院大阪選挙区候補が1日、貝塚市内の自宅に訪ねました。治安維持法犠牲者国賠要求同盟が西川さんの経験を聞き取る企画で、インタビュアーをわたなべさんが務めました。

わたなべ お会いできて光栄です。私は1981年生まれで34歳です。

長生きできる時代ではなく

西川 うれしいね、34歳の人が参院選に打って出ようというのは。これから1〜2年が非常に大事で、いまなんとか戦争法案を阻止しないといけない。そのためにもうちょっと生きて、様子を見たいという気持ちでいます。それが長生きのコツだと思っています。
わたなべ 戦争法の問題が出てきて、若い人たちも過去の戦争のことなどを学んで、憲法の大切さを実感しています。西川さんのお生まれになった当時はどうでしたか。
西川 私は漁師の村に生まれました。8人きょうだいの6番目でした。家は漁師ではなく、魚を干物や塩漬けなどに加工していました。
 村の子どもたちは、ほとんどが小学校を卒業すると紡績会社へ働きに行って、故郷へ戻ってくる人はいません。いまのように長生きできる時代ではありませんでした。
 日清戦争や日露戦争で日本は勝った形になっています。神の国と言われるだけのことはあると当時の国民は思ったのでしょう。宗教家をはじめ、みんなが大政翼賛でした。
わたなべ 戦争に日本が突き進んでいった時、どんなことをお感じになられましたか。

満州事変容認にストで反対

西川 私が左翼化した最初の原因は、日本が満州国をつくったことです。
 私はクリスチャンとして、YMCAの学生運動に参加していました。左翼運動が盛んになってきて、どう対抗しようかとできたのが、社会問題を勉強するSCM(スチューデント・クリスチャン・ムーブメント)というものでした。
 毎年の大会では、社会問題研究の幾つかのテキストを出して、中には資本論そのものを研究課題にする学生も出てきました。
 私の直接の指導者だった学生部長はSCM運動の中心人物でしたが、東大の学生たちと1カ月ぐらいで資本論3冊を読み上げたという、ものすごい研究グループもありました。
 それから1年後に満州事変がありました。指導者たちの大部分がキリスト教の大きな活動場所ができたと、軍に協力する形で満州事変を容認しました。学生たちはそれに反対して、会議をストライキで潰してしまった。宗教運動と言いながら、左翼運動そのものと同じ形で動いていました。
 私はストライキの責任者に選ばれたんです。そのことで、私は宗教運動だけど左翼運動として目をつけられた。
わたなべ 左翼の運動と思い込まれたんですか。

絵に描いたような大政翼賛

西川 自分でも左翼運動の一角だと思っていました。クリスチャンたちは戦争への疑問は持つだけは持っていたと思う。しかし、教会も礼拝の前に東方遥拝をして、天皇の無事を祈っていました。絵に描いたような大政翼賛ですよね。
わたなべ 西川さん自身が「この戦争はおかしい」と思ったのはなぜなんですか
西川 満州事変なんていうのはまともなものでないということは、クリスチャンとして分かりました。ところがYMCAの責任者や指導者たちは、戦争の指導者が天皇だということには触れようとしない。

動けなくなるまでたたかれ

 初めて治安維持法で逮捕されたのは東京で、1934(昭和9)年のことでした。経過は、1932(昭和7年)に「日本戦闘的無神論者同盟」という、文化活動の一翼の団体に参加しました。これはスターリンの活動の一部でした。当時は日本の社会運動の規範は、ソビエトから出たことがたくさんあったんです。そういう理論をまともに扱った無神論者同盟は、憲兵には、普通の文化活動よりも共産党や日本共産青年同盟に近いものと思われていたわけです。
 ですから東京で検挙された時は、いきなり「共産主義者だろう。天皇陛下に反対するんだろう」です。前年には小林多喜二が警察での拷問で死亡しています。私の場合もゴーンゴーンと10日間ぐらい動けなくなるまで、桜の棒でたたかれました。もう少しいったら内出血でどうにかなっていたかもしれないんだけれど、特高がそういう無茶をすることは許されていた。
 40年(昭和15年)ごろになると、戦況の行方もあって、共産主義の系統はとにかく抑留する、刑期が終わっても、なんとしても世間へ出さないという政策をとりました。

ビラ1枚だけで懲役2年に

 2回目の検挙がその時でした。共産主義グループの中心メンバーが刑期を終えて出てきた。共産党再建のために何かやるだろうと思われていました。たまたまときを同じくして、私の友人のグループが勉強会をやるというビラを出したんです。そのビラを私も1枚もらいました。これを理由に検挙された。懲役2年という実刑を受けることになりました。その時は暴力は受けなかったけれど、ひどい不衛生の中でした。
わたなべ たまたまそういう時期にビラを受け取っただけなんですね。
西川 国民の中に戦争に対する不安や、母親を中心に「戦争が早く終わってほしい」「戦争は怖い」という気持ちが充満していたことも事実です。
 戦争が進むにつれて、はじめは村のみんなで行列をつくって兵隊を送ってくれたのが、知らない間に行って、知らない間に骨箱だけ帰ってきたという形でしょう。さすがに日本が負けると思っていた人はどこまでいたかは分からないけどね。

両親や祖父母が守った憲法

 日本は戦争には負けないと、子どもに至るまで思わせる。けれど戦争が終わってアメリカ兵が食料をいっぱい持って、チョコレートを子どもにも渡せるというのを見て、日本の場合は、一週間の食料といっても乾パンぐらいを持っただけで、行ったところで自前で食料をということですから、こんな戦争に日本は勝てるはずないと思いました。
わたなべ いま国会前でたくさん声を上げている若い人たちや、大阪でも若い人たちが頑張っています。みんな共通して言うのが、戦前戦中にたくさんの人が命を懸けてたたかってこられて、戦後も両親や祖父母らが守り抜いてきてくれた憲法と平和を、自分たちの代で壊されたくない、責任があるんだと、いま声を上げてるんです。これからを生きていく若い人たちに、どんなことを伝えたいですか。

政治参加の機会拡大に望み

西川 学者でもない私が偉そうにものを言えるわけではないけれど、共産党の綱領の世界観、歴史観は何度読んでも間違いない。この党の指導に頼り、しかし他者の世界観も認めないといけない。
 大変な世の中に出くわして大変だと思います。生活や職場の保障が、日本は特別に面倒になっている。しかし18歳で政治にものを言える機会もできたんだし、そういう望みを広げて、しっかり生きていってほしいと思いますね。
 青年には仕事や男女関係やいろんな問題はあるけれど、いまここで安倍政権を存続させると、将来、仕事や勉学でも不安な状態が続くのではないか。ここらで友だちとも話し合って、デモにいっぺん行ってみるような、ちょっと突飛なことであってもしてみてほしい。「戦争する国」にするとしないとでは大変な違いですから。

安倍内閣退陣を見てみたい

 「しんぶん赤旗」を見ると、16歳の学生が「18歳になったら選挙に行けるんだから勉強したい」と言ったりしています。うれしいですね。安倍内閣を退陣に追い込む状態を見たい。わたなべさん、参議院議員になって頑張ってください。
わたなべ ありがとうございます。来年7月が私の挑む選挙ですが、安倍政権をそれまでに退陣させたいと思います。

特高に捕まっても貫いて
来年、当選報告できるように
インタビューを終えて わたなべ結

 満州事変の時に、キリスト教徒としておかしいと思われたのがすごい。当時の教育や、社会が全体として戦争に突き進んでいく中で、自分の考えをしっかり持っていたことに驚きました。だから特高に捕まっても屈することなく貫いて生きてこられたのだと思います。
 太平洋戦争に突き進む前年には、周りに「もう戦争は嫌だ」という雰囲気があったと言われました。ずっと戦争していますからね。思っていても口に出せない中で、西川さんは客観的な目を持っていたのだと思います。
 すごく前を向いて生きておられる姿に、驚くと同時に生きる姿勢を見せてもらった気がしました。
 3分の1ほどの年齢の私に、「長生きしてください」とおっしゃいました。来年は当選を報告できるように頑張りたい。

(大阪民主新報、2015年9月13日付より)

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