声を届けて
たつみコータロー参院議員の国会論戦
受け止めた願いと声を国会へ
(続き)
夫を看病しながら日給3千円の日雇い勤務で家計を支えてきた此花区の女性。2010年6月頃には4万5千円の家賃は滞納が続き、診察代どころか食費さえ出せない状態でした。後で分かったことですが、女性の夫は当時、白血病を発症し、だるさなどの全身症状で仕事に就けない状態でした。
もう2人で死ぬしかないのかな…。所持金が尽きた時に思い出したのが机の引き出しに保管していた1枚の紙。此花生健会が区内全域に配布した「相談会」の案内ビラで、数年前に自宅に投函されたものでした。
「何でも相談をと書いてあって…でも私たちをいったい誰が助けてくれるのかと半信半疑だったんです」
最後の望みを託そうとビラに書かれた住所に向かい、此花生健会の看板を見つけた女性は、「本当に団体が実在したんだ」と驚き、何度も帰ろうと悩みながら扉を叩いたと言います。
SOSの叫びに
「『守る会』に駆け込んでくる相談者の多くは長期間貧困状態に置かれ、心身ともに傷つき果てています。心の中ではSOSを叫んでいるのに、自己責任論で『助けて』と言えない人も多いです」。そう話すのは、たつみさんと同じ時期に此花生健会事務局で10年勤務した山下雅子さん。
事務所内に迎えられた女性も同じ状況で、涙を流して貧困に耐えてきた暮らしを打ち明けながら、「困っている」の一言がどうしても言えなかったといいます。
「そんな私の胸中を察していたのだと思います。『お金に困っていませんか?』と尋ねるたつみさんの表情は、貧困は恥ずかしいことじゃないよと言っているように見えました。私はその時初めて他人に『助けて』と言ってもいいと思うことができました」
再び事務局員だった山下さんが、当時のたつみさんの印象を語ります。「貧困は決して特殊なことではなく、誰の身にも起こり得るとの視点で手を差し伸べ、支援制度につなげていました。相手の置かれた窮状を把握し、最後まで親身に対応していました」
相談の翌日、たつみさんに同行してもらい区役所窓口で生活保護の申請手続きを済ませた女性は、すぐに夫を病院に連れていくよう勧められました。
医療費の負担を心配する女性にたつみさんは、お金の心配なく治療に専念できるよう関係機関に連絡。約1年間の闘病生活の後、夫の葬儀もたつみさんが取り仕切ってくれました。
女性が振り返って語ります。「人生に絶望しかけた時、『まだ生きてみよう』と思わせてくれたのがたつみさんでした。生活保護決定の日、『貧困に苦しむ人をなくすために力を貸してほしい』と言われたことが忘れられません。社会に役に立てるなら何でもしようと勉強を続け、同じように暮らしに困っている人の助けになろうと頑張っていきたいと思います」
励ましの言葉に
「子どもたちや人々の幸せをこんなに深く考えてくれる人がいる。希望ある未来を実現しようと訴える人がいると心を揺さぶられました」
07年3月、此花区内の公営住宅に暮らしていた女性Aさんは、府議会議員選挙に挑戦した、たつみさんの演説に涙を流したと言います。リーマンショック(08年)のあおりで家族が失業し、その後約5万円の家賃が滞納状態に。家族共倒れの危機に直面して此花生健会に助けを求めた時、たつみさんが「全力で支援しますから一緒に貧困を乗り越えていきましょう」と声を掛けてくれました。
「『守る会』の活動に参加するようになり、人から『ありがとう』と感謝を伝えられる生活に一変した」と話すAさん。「今の私があるのは『一緒に勉強していこう』と励ましてくれたたつみさんの言葉があるからです」
真の原因にメス
全日本生活と健康を守る会連合会の元会長で、此花生健会事務局長を歴任する松岡恒雄さんが語ります。
「たつみさんに接した多くの人が、社会に目を向け『変革者』へと成長していきました。彼の人柄や熱意に加え、政治と社会の矛盾をなくせば、必ず貧困問題を解決できるという確信を広げたからだと思います。たつみさんの国会質問には、生活現場で受け止めた切実な願いと声が詰め込まれていると思います」
(大阪民主新報、2018年6月17日号より)