新連載
時代をつないで 大阪の日本共産党物語
第1話 前夜 米騒動
日本共産党大阪府委員会の資料室に、もっとも古い資料、1918(大正7)年8月17日付の「大阪毎日新聞號外(ごうがい)」があります(写真右)。
「續(つづ)く各地の米騒動/十四日後の状況」「大阪府…郡部甚(はなは)だ不穏(ふおん)」「十四日以後大阪市内は外出禁止の府令を發布(はっぷ)せり」
鎮圧のために軍隊まで出動させた「米騒動」。米の安売りと生活困窮の改善を求めた民衆が、富山から京都、大阪、神戸、名古屋、東京、各地で、空前の規模でたちあがります。その背景は、資本主義の発展がもたらした米の需要の増大に、「寄生地主制」のもとでの生産が追い付かず、さらに日本軍のシベリア出兵をみこした軍用米の投機的な買占めがもたらした米価の高騰でした。
のちに大阪の日本共産党を代表する政治家となった川上貫一は、当時岡山県の役人でした。社会主義に関する本を読み始めた矢先のこと、いたるところで小作争議や労働争議がまきおこるなかでも、「とりわけ、私を刺激したのは、米騒動だった」(『自伝前編 とおいむかし』)と語ります。当時の寺内内閣は総辞職を余儀なくされました。
社会運動発祥の地・大阪
大阪では労働運動が燎原の火のようにわきおこります。明治期の天満紡績の争議、1万人の職工を擁した軍需工場・大阪砲兵工廠でのストライキなど幾多のたたかいをへて、1921(大正10)年、最初の大阪メーデーがおこなわれました。その決議文には、「われらは、速やかに治安警察法第一七条の撤廃を期す。われらは、団体交渉権の確認を期す。われらは、八時間労働ならびに最低賃金制の即時実施を期す」とありました。
資本主義の発展とともに、産業の中心地となった大阪は「社会運動発祥の地」ともいわれ、全国的な組織と運動の拠点でした。1922年結成の日本農民組合と全国水平社、1925年に結成された日本労働組合評議会はいずれも大阪に本部がおかれます。1926年に無産青年同盟結成大会が開かれたのも中之島公会堂でした。
1911年に「北浜の風雲児」といわれた岩本栄之助が当時の100万円を寄付して建設された中之島公会堂は、いまも変わらぬたたずまいをみせています。この地は、節目節目で、日本と大阪の解放運動を彩る歴史の舞台となってきました。
自由民権運動百年碑
大阪市北区にある太融寺(たいゆうじ)は「自由民権運動」に深いかかわりを持ちます。1880(明治13)年、大阪で国会期成同盟結成大会が開かれ、3月19日から4月8日まで会場を太融寺に移し、国会開設の請願書の提出と国民的運動の方向が決まります。その「百年碑」が境内にあります(写真右)。
「自由民権運動は日本最初の民主主義運動であり、国会開設・憲法制定・地租軽減・地方自治・不平等条約撤廃などの諸要求をかかげて展開された」「私たちは先人の遺業をたたえその進歩と革新の伝統をうけつぎここに記念碑を建て自由と民権が永遠の真理たることの証とするものである」
碑文は黒田了一(元大阪府知事)が撰文したものです。
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自由と民権を求めるたたかいの伝統のうえに高まりをみせる農民運動、労働運動、民衆のエネルギー。そのうえに1917年のロシア革命の影響下、より広がった社会主義の思想と運動。これらが日本においても、大阪においても、平和と主権在民をかかげ、たたかいの先頭にたって不屈に活動する政党の出現を求めていました。
歴史的な要請のなかで、日本共産党が結成されたのは1922年7月15日のことでした。(次回は「日本共産党の創立」です)
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敬称略。この連載は日本共産党大阪府委員会「100年史」編集委員会が執筆しています。
(大阪民主新報、2020年7月12日号より)
※7月13日の掲載時に「碑文は黒田了一(元大阪府知事)が揮毫したものです」としていましたが、正しくは「揮毫」ではなく「撰文」でしたので、訂正しています。