時代をつないで
大阪の日本共産党物語
第11話 無産者診療所
1929年3月、無産者病院設立のアピールが出され、雑誌『戦旗』に掲載されました。このよびかけにこたえ大阪でも実行委員会がつくられ、1931年2月1日、今の福島区茶園町に大阪無産者診療所が設立されました。
福島に続き吹田に無産者診療所
続いて8月10日、三島郡吹田町(現吹田市)の地下道筋に三島無産者診療所が設立されました。医師は静岡県下田出身で京大卒の加藤虎之助。診察無料、薬剤1日10銭、手術代実費と掲げました。低額無料診療の先駆けです。健康保険制度のない農民や労働者家族、健保はあっても保険ではまともに診てもらえない労働者が押しかけました。
加藤は翌年2月、幹部候補生として入営します。加藤復帰後、経営上の理由からやむなく薬剤を12銭に、のち15銭に値上げをしました。それでも加藤一人では休む間のないほど患者がきました。
33年春には吹田町で麻疹(ましん=はしかのこと)が流行、町長は保健担当の専任助役をおき、児童の健康増進、体力向上に取り組みます。夏には町長は加藤に町医を依嘱、診療所は主治医のいない患者や生活困窮者の医療を引き受けます。12月、加藤は腹痛を我慢して往診に出かけ、帰りに道で倒れます。急を聞いて駆けつけた医師が阪大病院へ入院させますが、盲腸炎が手遅れで悪化しており、34年1月に亡くなります。待ちかねたように大阪府特高課から閉鎖命令が出されます。
「三島無産者診療所最初之医師 故加藤虎之助先生ノ墓」「建立者 無産者有志一同」と刻んだ墓が川面墓地に建てられ、今もその思いを受け継ぐ民医連相川診療所の関係者によって墓参が続けられています。
東成にも無産診療所が
東成診療所は1933年7月20日、労農救援会(無産者の経済的困窮を救援する組織)と市電市バス今里車庫の労働者によって設立されました。医師は大阪高医専1期生の桑原康則。親切でていねいに診てくれると労働者や住民から大歓迎されました。八尾や田島地域に出張診療も行いました。『特高月報』も「責任者医師桑原康則の献身的活動に依り、現在は相当の成績を挙げ」と書いています。桑原医師の健保資格を剥奪する動きが出たときには、市電労働者が行動して阻止しました。台風時には救援診療活動に取り組みました。「労救はアカだ」という攻撃が強まるもと、「家庭保健会」を組織し、近隣の良心的な医療機関と協力、牛乳・毛糸などの共同購入にも取り組みます。
川上貫一の提唱で中野信夫医師らが中心となって『医療と社会』誌を発行、医師・医学生の協同と交流をめざします。
1936年12月、特高の圧力により労農救援会大阪支部は解体を決議、その翌日、役員は総検挙されます。活動家を奪われ医師だけではやっていけなくなり、翌年5月、桑原医師が辞職、支援に来ていた若手医師も応召などで、12月には無産者診療所としての実質はなくなります。
JR吹田駅前に建立された記念碑
敗戦後の11月、無産者診療所にかかわっていた医師たちが集まり相談、翌年1月関西医療民主化同盟が組織されます。これはのちに民医連、保険医協会などに発展していきます。
1980年、国鉄(現JR)吹田駅前再開発に伴う道路拡張工事で、三島無産者診療所のあった建物が壊されました。榎原革新市政のもと、市民の理解を得て「三島無産者診療所跡」碑が建てられました。お金の心配をしなくても医療を受けられることをめざした無産者診療所のことは、市民に広く知られています。(次回は「人民戦線運動」です)
(大阪民主新報、2020年9月27日号より)