時代をつないで
大阪の日本共産党物語
第12話 人民戦線運動
相次ぐ弾圧のなか、1935年3月、袴田里見があとの中央委員を残さないまま逮捕され、中央機関紙「赤旗」も、2月20日付の第187号以後は停刊状態になるなど、党活動は困難に陥ります。
コミンテルン7大会
しかし、そのなかでも労働者のたたかいは止むことなく、港南地区(大正区)では党の積極的な働きかけのもとで労働組合の戦線統一運動がすすみ、1935年4月、港南全労・総同盟合同促進協議会が結成されます。この運動は7月に開かれたコミンテルン(共産主義インタナショナル)第7回大会で山本懸蔵によって報告され評価され、全国的な運動にひろがり、労働戦線全体に大きな影響をあたえるものとなりました。
この当時、1936年1月、小岩井浄らは労働雑誌社関西支局(支局長川上貫一)を設立して港南地方の全労、総同盟組合員に積極的に働きかけます。
小岩井は「『労働雑誌』を資料にして周囲の大衆への啓蒙、教育、アジプロ(注 宣伝扇動)をやってもらいたい」、川上は「進歩的インテリゲンチアは…小市民と労働者階級との統一戦線の結成に於て極めて重要な存在であり、また必ずそうでなければならぬ」と力説していました。
「反ファシズム統一戦線」をうちだしたコミンテルン第7回大会に日本の青年代表として参加していた小林陽之助は、東京、大阪、京都に組織をつくり、共産主義者の結集の人民戦線運動の推進にあたります。大阪では和田四三四らが日本における人民戦線の運動をすすめる各種パンフレットなどを発行し、組織の発展、拡大につとめました。和田は同年12月、小林は翌年12月に検挙され、小林は42年2月、和田は同年8月に獄死します。
産業報国運動
これにたいして他の政党、政友会、民政党や社会大衆党などは中国への全面戦争の開始とともに、これを支持します。1940年3月には日本共産党以外のすべての政党がみずから解散し、戦争遂行のための協力組織「大政翼賛会」に合流します。大阪の西尾末広は、1942年の翼賛選挙では政見の第一に「御国の為に血を流せ」をかかげました。
これと軌を一に1938年、「労資双方に対し皇国産業の本義たる労資一体産業報国の精神を普及徹底せしむること」を目的に「産業報国会」づくりがすすみ、大阪府も旗を振り、1940年にはすべての労働組合を解散させ、「大日本産業報国会」を結成しました。府内の産業報国会の組織数は1万2070、会員数50万521人、組織率95%に及びました。
日本共産主義者団
1937年12月大阪で春日庄次郎、竹中恒三郎、安賀君子らは日本共産主義者団をつくり、日本共産党の再建を目標に、反戦・反軍闘争を展開しようと活動をすすめましたが、翌年9月に検挙されました。短い期間でしたが、団の発行した文書は「民衆の声」「嵐をついて」など40種類、総計5600部に及びます。
この時、働く女性の自主的なサークル「かりがね会」や町会議員に当選していた横田甚太郎を先頭にした吹田無産者倶楽部なども共産主義者団のグループという口実により弾圧されました。(次回は「プロレタリア文化運動」です)
(大阪民主新報、2020年10月3日号より)