『時代をつないで 大阪の日本共産党物語』
出版に寄せて
大阪教職員組合元委員長 篠浦一朗さん
1931年生まれの私は、第3~8章に至る歳月を現役としてたたかいに参加し、学び鍛えられました。
「矢田事件」は、私が大阪教職員組合(大教組)執行部に入った69年、大阪市教組東南支部役員選挙で起きました。「統一派」(少数派)の候補が出したビラの労働条件改善要求の中に、「同和のことなど」と書かれてあるのを部落解放同盟(解同)が「差別文書」だと決めつけ、ビラに名前を連ねた組合員を「差別者」として矢田解放会館に拉致・監禁。「糾弾」と称して大きなマイクで耳元で怒鳴るなど、一昼夜にもわたり暴力的行為を繰り返しました。「解同」朝田派の教育現場への無法な介入の始まりでした。
府・市教委も警察も「介入」を容認し、大教組の多数派も支持しました。「解同」幹部たちは学校現場に乗り込み、校長をはじめ教職員に「お前らは差別者だ」と恫喝するなど、教育現場は「そこのけそこのけ同和が通る」事態が広がりました。この時、私たちを支援し、一緒にたたかってくれたのが日本共産党でした。
長く苦しいたたかいでしたが、多くの組合員が支持してくれ、73年2月、大教組第100回臨時大会で私たち少数派が執行部の多数となりました。
71年に社会党・共産党と労組・民主団体でつくる「明るい革新府政をつくる会」の推薦で黒田革新府政が実現しますが、知事への「オール野党」の攻撃は理不尽なものでした。私たちは府議会が始まると、知事が議会を終えて帰って来られるまで待機して激励。野党から散々やられても知事は「結局僕が言う通りに通りましたわ」とケロッとして言われ、かえって私たちが励まされました。
4年後の知事選では、社会党・総評などが黒田氏を支持せず、社公民で候補を立て、自民党候補と「三つ巴」の選挙に。共産党と大教組、全日農と市民4団体を中心にたたかい、黒田府政を守り抜きました。
黒田知事は、日本一厳しい公害規制や65歳以上の医療費無償化、「15の春は泣かせない」と8年間に56の高校を新設、府営住宅2万9186戸、保育所279カ所の新設など府民の暮らしを守る優れた実績を残しました。
今、コロナ感染の死者全国最多、高校つぶし、カジノに巨額の税金を使うなど府民無視が目に余る維新府市政ですが、黒田府政が築き上げた諸成果を学んでほしいものです。
(大阪民主新報、2022年12月25日号より)