あったかい人間の連帯を国の政治に
参院議員・山下よしき物語
②災害対策(1)阪神・淡路大震災を原点に
候補者活動中に震災に直面して
山下さんが参院大阪選挙区の候補者として大阪中を駆け巡っていた1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起こりました。日本共産党大阪府委員会は即日、地震災害対策本部を設置。山下さんはその本部長として府内の被害状況をつかむと同時に、街頭で救援募金を呼び掛ける先頭にも立ちました。
1月21日には、大阪から9時間かけて兵庫県庁へ。西宮や芦屋、神戸の被災地で見たのは、つぶれた家屋、傾いたビル…。人々の暮らしが土台から破壊された戦後未曽有の大災害の状況を肌で感じつつ、街頭で寄せられた募金の第1次分1千万円を、「これが大阪府民の心です」と県庁に届けました。
個人補償を拒む政府の壁に直面
山下さんが参院議員に初当選したのは、震災から半年後の7月。当時の村山政権は、道路や港は再建する一方、被災者の生活再建を置き去りに。「日本は私有財産制の国。個人の住宅再建は自助努力が原則」と、個人補償に背を向けていたからです。
自ら進んで災害対策特別委員会のメンバーになった山下さんは、何度も個人補償を迫りましたが、政府は壁のように拒否。被災者の集会や現地調査で何度も現地に出掛けましたが、「仮設住宅に行くのが正直つらかった」と山下さん。「自力で生活再建できず、生きる希望がなかなか見いだせない人々に、ただ『頑張って下さい』と慰めるだけでは、国会議員として役だっていない」「国会議員って、こんなに無力なのか」「政治に何ができるのか」と、自問自答を繰り返したといいます。
支援法の制定へ市民と共に運動
転機になったのは、「政府がやらないなら、自分達で被災者支援法をつくろう」と、被災住民やボランティア、作家の小田実さん(故人)ら多くの人々と運動に取り組んだことです。
山下さんは、被災地選出の各会派議員に働き掛け、自民党から日本共産党まで超党派の議員有志で、個人補償を求める法案づくりのための勉強会を立ち上げました。
「当選後間もない若い議員でしたが、戦後未曽有の大震災を体験した、この時代に国会に身を置く者の歴史的使命だと、説得して回りました」と振り返ります。
道のりは平坦ではありませんでした。法案化の作業でも、あらかじめ敷かれたレールはありません。小田さんに「市民は一生懸命やっているのに、国会議員は何をもたもたやっているんだ」と怒鳴られたことも。反対に、山下さんから「市民案の形式にこだわっていたら、作業が複雑になり、法案化は間に合わない」と意見するなど、市民と国会議員が対等な立場で法案づくりに取り組みました。
スクラム組めば政治は動かせる
97年、全壊世帯に最高500万円を支給する法案が完成し、6会派39人の議員有志の賛同で参院に提出。法案成立へ、小田さんはじめ市民運動の人々と、東京や被災地での集会・デモなど世論喚起の活動にも取り組みました。
被災者に公的支援を求める国民世論が高まる中、政府・与党が追い詰められ、98年に被災者生活再建支援法が成立。全壊世帯に100万円を支給するという不十分なものでしたが、07年11月には抜本改正案が全会一致で可決・成立しました。全壊世帯に300万円の支援へ拡充され、2011年の東日本大震災の被災者の支えにもなりました。
阪神・淡路大震災から12年、各地の災害の被災者とも連携したたたかいが、政府・与党の分厚い壁を突き崩したのです。
山下さんは言います。
「阪神・淡路で被災した人たちは、抜本改正しても1円も受け取れませんが、東北の人々の役に立っていると報告すると、喜んでくれました。被災者の願いは『自分たちが味わった同じ苦しみを味わわせたくない』ということ。どんなに壁が厚くとも、市民の運動と議員がスクラムを組んでたたかうなら、政治を動かすことができる。これが私の国会活動の原点です」(続く)
(大阪民主新報、2019年5月12日号より)