新しい時代開く砦を
日本共産党創立100周年記念事業 府新事務所建設
4万人参加の建設運動へ
日本共産党大阪府委員会は、2022年の党創立100周年記念事業の1つとして、新しい府委員会事務所建設運動を、4万人の参加で成功させようと取り組んでいます。
20年着工・22年に完成予定
現在、大阪市天王寺区空堀町にある府員会事務所は、1965年に建設。大阪府党の「大阪がかわれば、日本がかわる」のスローガンの下、党のたたかい、府民運動の拠点として、半世紀以上にわたって大きな役割を果たしてきました。
この間、多くの人たちの協力で増築や改築を行ってきましたが、55年が経ち老朽化。バリアフリー化の課題と共に、南海トラフなどの大災害も予想される中で、耐震基準を満たしていないことから、建て替えが必要になってきました。
党府委員会では、「府内の各地区委員会と支部をつなぐ発信と交流、学習の拠点として役割を果たす新事務所として、安全性・機能性を備え、地域、環境、バリアフリーに配慮した21世紀にふさわしい事務所にしたい」としています。
新事務所は現地で建て替え、2020年着工、22年春の完成を予定しています。党府委員会は4億円を目標に建設募金に取り組み、「一般募金」と合わせ、毎月の「積み立て募金」を広げ、4万人が参加する運動で成功を目指しています。
柳利昭党府委員長は、「安倍政治と維新政治の『二重の逆流』を打ち破るために、日本共産党は市民と野党の共闘を発展させる要の役割をはたしています。その拠点となる新事務所建設に、皆さんの大きなお力添えを心からお願いいたします」と協力を広く呼び掛けています。
新しい事務所はどんな建物
新事務所は、「安全性と利便性、環境、バリアフリーに配慮」をテーマに、専門家や関係者の意見を集め、設計を進めています。
建物は現在の5階建てから、4階建てにして床面積をほぼ維持します。
玄関に入ると1階部分は、高い天井広いエントランス、相談や打ち合わせのオープンスペース。来客者や相談者との面談だけでなく、記者会見やイベントスペースとしての活用を予定しています。書籍コーナーも充実させます。
2階・3階は、使い勝手のよい執務室にするため、可能な限り壁をなくし、各部門の連携をスムーズにします。3階のベランダには、明るい緑化空間を設ける予定です。
4階の大会議室は、防音機能の高い可動式の間仕切りで、同時に3つの会議ができるようにします。
今まで少なかった女性用トイレを各階に設置し、バリアフリー化を進めるとともに、多機能トイレも設置します。環境対策などの視点から、屋上に太陽光パネルの設置を検討。ペーパーレス化なども進めます。
車いすでも利用しやすい事務所づくりを目指します。
募金を寄せた人たちの声は
3月31日現在、大阪内外の党員・読者・支持者など6233人から、約1億5506万円の募金が寄せられています。
募金を寄せた人からは、「府委員会ビル建設が、大阪府民の未来を展望させる新しい拠点に発展することを願っています」(東大阪市)、「記念事業の大工事、タイル一枚に役立てて下さい。些少ですが心ばかりの募金です」(大阪市都島区)、「“野党連合政権”の時代にふさわしい事務所建設、新事務所建設の成功を力に、“大阪を変え、日本を変える志で大きな躍進を”」(島根県境港市)、「新しい時代をつくる若者たちのつどうセンターに」(元地区委員長)、「1年間、配達援助金を貯金したものです。新事務所建設のため、お役立て下さい」(岸和田市)など、多くの期待と激励が寄せられています。
また、毎週金曜日、JR大正駅前で行われる党の宣伝で、必ずビラを受け取る人が、建設募金を訴えるチラシに1万円を包んで募金しました。
建設募金のお願い
日本共産党大阪府員会新事務所建設募金は、最寄りの議員、党支部、党員に届けてください。郵便振替での送金先は、口座番号=00920―8―97104。加入者名=日本共産党大阪府委員会へ。通信欄に住所、氏名、職業と「新事務所建設募金」と記入を。
新事務所建設募金の取り組みに寄せて
――戦後の府委員会事務所の足取りから
日本共産党府委副委員長 中村正男
旭区赤川町で戦後直後
日本共産党大阪府委員会はきたる創立100周年(2022年7月15日)の記念事業として、新しい事務所の建設を大阪府党の共同事業として提起し、募金運動にとりくんでいます。
大阪で日本共産党が戦後、初めて公然と党事務所を構えた地は大阪市旭区赤川町、1945年11月3日のことでした(写真)。その直後、11月8日に東京の代々木で第一回全国協議会が開かれ、大阪から戎谷春松氏らが参加します。当時の党員は86人と伝えられます。そして第1回日本共産党大阪地方党会議が1946年1月2日に開かれました。
2代めの事務所(大阪地方委員会)は1946年3月、西成区今池町西成ビルに構えました。その直後、戦後最初の総選挙で大阪から衆議院議員を生み出しました。この年開かれた第3回大阪地方党会議時には府内2000人の党員でした。
3代めは、1947年、南区(いまの中央区)北桃谷町に移転します。上二病院と同居し、「上二」の愛称が使われました。この年、戦後初のいっせい地方選で大阪市会に初議席を得、府内市町村に19人の議員を生み出します。
戦後直後のたたかいを刻みながら、第8回大会での綱領確定後、1965年4月1日、天王寺区宰相山町(現空堀町)に4代目の事務所として建設したのがいまの大阪府委員会です。最初は4階建てでした(のちに5階建てに)。
当時の建設事業の苦労を、名誉府役員の伊藤伝一さんはこう語ります。「『上二』が老朽化して、病院も建て替えることになったんです。それで場所の確保から、当時の財政部長だった戸松喜蔵さんと一緒にかけめぐった資金ぐり、工事の進捗管理と、そりゃたいへんでした。近隣のみなさんの理解を得て、完成した時には『私たちの新しい砦』と喜び合いましたね」。
「玉造」という地
「玉造」は、大阪の歴史で光彩を放つ土地です。戦前は砲兵工廠に通う夥(おびただ)しい労働者は、「城東線」(いまの環状線)の最初の6駅の一つ、玉造駅から通いました。貨物駅も併設されており、城東線の各駅の中で、第一位の乗客数と出荷量を持っていました。
いまも駅前にある、日之出通りは1935年当時、心斎橋筋、九条、十丁目筋(現在の天神橋筋)などに次ぐ屈指の商店街でした(玉造日出通北商店街協同組合の中尾年秀さん近著『大阪』から)。人の賑わいから、エンタツ・アチャコが初舞台を踏んだ三光館があり、漫才の父・秋田實も玉造生まれで、玉造稲荷神社に「笑魂碑」が建てられています。最近では府委員会直ぐ近くにあった「真田丸」が脚光を浴びました。
次の100年担う拠点づくりへ
この半世紀余、いまの事務所は、綱領確定後の党建設、黒田革新府政の誕生、ソ連・中国の干渉とのたたかい、「解同」の無法とのたたかい、「オール与党」との対峙など、大阪の共産党と民主勢力のたたかいの拠点を担ってきました。
その「玉造」の地で、新たなたたかいと共同の拠点となる新事務所を建設し、次の「100年」へ。広くみなさんの募金活動へのご協力を願ってやみません。(なかむら・まさお)
(大阪民主新報、2020年4月5日号より)