時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第13話 プロレタリア文化運動

 1928年3月、全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成されました。12月に芸術団体協議会に改組、プロレタリア作家同盟、同劇場同盟、同美術家同盟などを設立していきます。5月には機関誌『戦旗』を創刊。小林多喜二の「蟹工船」、徳永直の「太陽のない街」はこの『戦旗』に発表されました。検閲を受けた合法雑誌でしたが、しばしば発売禁止となり警官によって書店で没収されました。禁止命令のでる前に印刷所から各地方の支局に発送、支局が読者に届けました。大阪には大阪中央支局(港区新池田町=今の三先、のち北区沢上江町=今の都島区都島本通に)と堺支局がありました。市電自助会では100人の読者がいました。

『戦旗』防衛で多喜二らが文芸講演会  

 1930年5月18日、大阪実業会館(今は大阪商工会議所が建つ)で戦旗防衛三千円基金募集文芸講演会が行われ、小林多喜二、貴司山治、片岡鉄兵、江口渙、大宅壮一らが講演。入場者約800人、入場料は労働者20銭、普通30銭で42円20銭の基金を集めました。翌年6月1日に天王寺公会堂で行われた第3回戦旗防衛講演会では警官が入場者の身体検査を実施、1200人が入場したところで定員を超えたと警官隊が扉を閉鎖。場外の300人はいっせいに声を上げて会場と呼応、場内からは拍手で応えました。場内では、詩の朗読以外の弁士はことごとく途中で停止を命じられました。

プロレタリア文化連盟を設立     

1933年8月号『大阪の旗』表紙(右)と目次。表紙には内務省の「禁止」の押印も。

1933年8月号『大阪の旗』表紙(右)と目次。表紙には内務省の「禁止」の押印も。

 1931年11月ナップは解体し新たにプロレタリア文化連盟(コップ)が組織され、大阪地方協議会が設立されました。
 プロレタリア作家同盟大阪支部は機関誌『大阪ノ旗』を刊行。1933年8月号では三谷秀治が本名で「演習」という短編創作を発表。「おい!偉い事だぞ!稲踏みッ倒しやッ」「俺の田もだぞッ軍馬の野郎だッ」と夜間軍事演習に稲を踏み倒された農民の怒りを描いています。作家同盟の発行した「文学新聞」を市電自助会都島支部青年部では100部買い取っていました。
 プロレタリア劇場同盟(のち演劇同盟)所属の大阪戦旗座は、1931年4月の10日間、中津浜通の光徳寺で滝沢修、山本安英、土方与志、丸山定夫らを講師に演劇講習会を開催しました。のちに大岡欽治は「当時、演劇研究のための学校も研究所もない時代に、この東京の現役の演劇人による指導は、地方劇団の充実と拡大に大きな役割を果たして、地方の演劇の芽を伸ばしていった」と書いています(「赤旗」1976年3月6日)。
 1931年11月6日、朝日会館(北区中之島)で開かれた戦旗座と構成劇場の共同公演「太陽のない街」は1848人が鑑賞。劇場同盟の演劇台本は保安課、特高課など二重の検閲を受け、東京で公演された台本であっても容赦なく削除、上演禁止となりました。
 プロレタリア美術家同盟は1930年12月、恵美須町にプロレタリア美術研究所を設立。浅野孟府が研究部長となりました。1931年2月プロレタリア美術大阪地方展覧会を朝日会館で開催、159点の出品と1353人の参加がありました。

特高による全面弾圧を受けて     

百話1 1933年、特高はプロレタリア文化団体そのものを治安維持法違反の目的遂行にあたるとして全面弾圧にのりだし、コップ大阪地協や各団体の幹部を検挙、各団体は解散せざるをえませんでした。それでも、『関西文学』『啄木研究』などの雑誌や「大阪協同劇団」など、より幅広い人々との協同の自主的な活動の歩みが続けられました。(次回は「朝鮮からの強制連行」です)

(大阪民主新報、2020年10月3日号より)

※大阪民主新報掲載時に誤っている箇所がありましたので、修正しています。

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