時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第32話 ソ連の干渉とのたたかい

「遺恨あり」    

 「われわれに遺恨ありそうろう。その相手は、ソ連共産党であり、中国共産党であります」
 1960年代に受けたソ連、中国の干渉のなかで、衆院議員だった志賀義雄、続いて候補者だった西沢隆二(ぬやまひろし)が日本共産党を裏切ります。それをはねのけ、72年の総選挙で正森成二を勝利させた時、熊野雄次郎(65年8月から木津川地区委員長)が、1区選対本部長として聴衆を奮いたたせた「涙の演説」の一説です。

志賀義雄という男 

 64年5月15日の衆院本会議。志賀義雄が当時来日していたソ連のミコヤン副首相が見守るなか、党の決定に反して「部分核停条約」批准に賛成します。党は、この条約が地下核実験による核兵器開発を合理化し、米ソを軸とする核兵器独占体制の維持をはかるものであると見抜き、反対しました。
 戦前の治安維持法下、「獄中18年」の経歴をもち、中央幹部の一人だった志賀の裏切りは衝撃でした。
 志賀は、ソ連共産党の機関紙「プラウダ」に「ジューコフ論文」がだされ、日本共産党を名指しで攻撃した頃から、「ソ連が結んだ条約だから、これに反対したら大変なことになる」といいだしていました(のちにソ連から資金援助を受けていたことも判明します)。しかし、党の決定には従うと約束したことから、63年の総選挙では候補者として公認され、一区の有権者には「部分核停条約反対」を訴えていました。
 しかし、国会の場で党を裏切り、その後は説得に応じるどころか、「党の政策は正しくないから、規約違反ではない」などと言い放ち、公然と党攻撃を始めます。中央委員会は5月21日の第8回中央委員会総会で除名処分を下しました。府委員会は緊急活動者会議(23日)、府委員会総会(27日)、第18回府党会議(30・31日)で特別決議をあげ、ソ連の干渉による志賀の策動を断固打ち破る活動を開始します。
 志賀は「日本のこえ同志会」を組織し、「プラウダ」は最大限の賛辞を送ります。当時、「共産党員の半分ぐらいついていくのでは」などという記者もいましたが、志賀についた者はごく少数でした。
 7月の党創立記念集会で川上貫一は「1人、2人の反党分子がうごめこうと、大阪の党は確固不動」と喝破しました。
 ここには「50年問題」や「綱領論争」をとおして鍛えられた大阪の党の姿がありました。

1区と6区で   

志賀の裏切りに日本共産党は除名処分を下しました。その直後に開かれた府委員会の緊急活動者会議を報じる大阪民主新報(1964年5月26日付)

 67年総選挙から、旧大阪1区は1区と6区に分区されました。志賀に代わって1区で候補者となったのは西沢隆二で、今度は中国の干渉のなかで党を裏切ります(詳しくは次回)。新しい6区からは、神崎敏雄大阪市議団長が敢然と立ちます。
 「5人しかいない大阪市議団の団長を衆院候補へ、中央と府委員会のすごい決断のほどが伝わった」と当時、南大阪地区で活動していた小林喬、中島博は語ります。
 志賀は67年総選挙で6区から立候補します。神崎の当選はなりませんでしたが、志賀は落選。その後は「日本のこえ」として大阪地評などに食い込み、反党活動を続けましたが、その組織も雲散霧消しました。
 そして72年の総選挙、1区正森成二、6区神崎敏雄ともに、志賀がとっていた得票率を大きく上回り、当選をかちとります。のちに1991年の「赤旗まつり」のスピーチで、熊野はこう語りました。
 「1議席だった日本共産党の議席を2議席にしてソ連や中国にお返ししたんです」(次回は「中国の干渉をはねのけて」です)

(大阪民主新報、2021年2月28日号より)

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