時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第37話 政策活動の本格化

1967年いっせい地方選挙で  


党大阪府委員会の政策と闘争についてまとめたパンフレット(67年第1集)

 日本共産党大阪府委員会が政策宣伝活動を本格化させたのは、1967年いっせい地方選挙の頃でした。この年2月、第3回中央委員会総会(第10回党大会)で「地域開発」反対政策の議論をつうじて、“政策は大衆の要求と綱領とを媒介するもの”としてその位置づけを定めました。その大阪における具体化、発展が求められていました。
 『清潔で民主的な大阪府・市政をめざす 日本共産党の政策と闘争』(67年第1集)には、当時うちだされた21本の政策・政治論が収録されています。
 「大阪府政・市政での5大政策」では、自民党左藤府政は「府民の犠牲で大資本に奉仕する府政」だと鋭く切りこみ、「府営住宅など家賃の安い住宅を大阪全体で年間12万戸以上建てる」「健康保険や国民健康保険その他の社会保障を拡充して医療費の心配なしに医者にかかれるようにする」「工場、火力発電所に水と大気の完全な汚染防止装置をつけさせる。大会社には自費で、中小企業には国と府で援助する」などを提起しています。
 その裏付けとなる財源政策も、「関電、大阪ガス、大きな倉庫会社や船会社などの支払う道路、港湾使用料や八幡製鉄など大会社の使う工業用水道の使用料を大幅に引き上げて年間16億円の財源を確保する」など具体的に描きます。
 総合政策とともに、「大阪の学童、幼稚園児を交通事故からまもるために」「大阪の住宅難を解決するわが党の政策」「万国博をめぐるいくつかの問題」などの個別政策を積極的に打ち出しました。

中馬大阪市政に対して        

 日本共産党は、こうした政策実現の保障は党を大きく躍進させ、強力な議員団をもつこと、そして強い統一行動にささえられた民主勢力が府議会の多数を占め、知事をその手に握る「民主連合府政」を実現しようとよびかけました。
 63年のいっせい地方選挙において、党と民主勢力は中馬馨大阪市長候補を推し、自民党を破ります。ところが中馬氏は、「大企業の利益をはかる政策を中心に運営されてきた…自民党の政策をきりかえる」というみずからの公約に反し、自民党政治に追随し、公共料金の値上げや労働者に対する「合理化」しめつけなど、市民の利益に反する市政をおこなったあげく、「私は革新市長とか革新市政とかいったおぼえはない」などと言い放ちました。この経験は、政策協定、組織協定とともに候補者の人物もきわめて重要な問題だということを教えました。

民主団体の運動発展と一体に     

 当時の日本共産党の政策活動は、地方議会に進出した党議員の活動とともに、科学者の協力、民主団体の運動の前進がささえになりました。
 公害問題では、「大阪民主新報」に科学者の視点から「堺・泉北コンビナート問題」「左藤府政の対策で公害が防げるか」などの論稿がどんどんとだされます。
 民主的諸団体は、この時期、大きな飛躍をとげます。62年11月に誕生した新日本婦人の会大阪府本部が物価問題、保育所問題、食品問題、子どもを交通事故から守る問題など多くの運動を展開し、翌年には会員を倍加します。大阪商工団体連合会(大商連)は、税務署によるはげしい攻撃に抗して、60年代後半には4万会員を突破しました。その草の根からの声と運動は、日本共産党政策の中にも息づきました。(次回は「矢田問題」です)

(大阪民主新報、2021年4月4日号より)

コンテンツ