時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第47話 タケ子――73年参院補選の勝利

『タケ子』     

 『タケ子』(Ⅰ・Ⅱ 新日本出版社)は、沓脱タケ子が病魔とたたかいながら、「私が書くべきことを、あなたが代わって書いて欲しい」と同書の著者、稲光宏子に託した渾身の書。上田耕一郎元副委員長が同書で、「沓脱さんの若い時代の、実にため息が出るほどのすばらしいたたかいと生き生きとした成長ぶりが、みごとな筆致で描き出されている」と評しています。「戦後史のなかで、政治家として府民にもっともよく知られ、頼りにされた党員が沓脱タケ子。今日の大阪で、今日の『タケ子』をいっぱい作ってほしい」。稲光は語ります。

千石荘から西淀川へ

 沓脱タケ子。1922年7月生まれ。44年貝塚市の結核療養所の千石荘病院に医師として勤務。46年日本共産党に入党。49年にレッド・パージで病院を追われ、50年西淀川区で姫島診療所を開設。この年襲ったジェーン台風で水害を受けた姫島一帯を、いかだを組み、タライの船をつくって診療にあたります。55年大阪市議会議員に。その後4回の市議選ではいずれもトップ当選。「矢田問題」直後、「解同」が起こした共産党大阪市議団「除名」策動を、団長として敢然とはね返しました。

「自共対決」    

前田武彦氏やいずみたく氏らが沓脱応援に駆け付け=73年6月16日、国鉄天王寺駅前

 タケ子に国政候補として白羽の矢があたったのは73年。自民党の赤間文三参院議員の死去に伴い、急きょ参院大阪地方区補欠選挙が実施された時でした。擁立発表は5月4日、告示は25日、投票は6月17日の文字通りの短期決戦。自民党候補は「オール財界」代表の森下泰(森下仁丹社長)でした。
 大阪府委員会は5月8日の総会で、「参院補選での府民の審判が、今後の政治の方向を決める」「わが党が勝利するならば国政と地方政治の革新をさらにすすめる」「大阪でわが党が1970年代前半に名実ともに第一党となる貴重な足がかりをつくる」と位置づけ。1万5千人を扇町プールに集めた決起集会で緋田吉郎府委員長は「沓脱さんの勝利で提案権をもつ議員団となり、参議院に新風を」と全党員と25万後援会員に総決起をよびかけます。3度にわたり来阪した不破哲三書記局長は「〝主権在民〟か“主権財界”か」「自民党政治の病巣へ名医の〝メス〟を」と訴えました。
 自民党は橋本登美三郎幹事長が「自民党の消長を決するきわめて重大なたたかい」とアピールをだし、田中角栄首相以下、自民党首脳、議員100人以上を投入。「自由社会を守れ」「社会主義には自由がない」との反共デマ宣伝を大展開します。
 沓脱陣営は一歩もひるまず、最終盤には不破書記局長とともに、タレントの前田武彦、作曲家のいずみたくらも応援にかけつけるなか、全力投球します。

沓脱勝利を伝える各紙の夕刊(73年6月18日付)

 開票結果は、沓脱タケ子70万230、森下泰68万6307。定数1の国政選挙を「自共対決」で制し、大阪地方区に初議席をもたらした劇的勝利でした。6月18日付夕刊各紙には、「『自共対決時代』を実証」(「朝日」)「自民に大きな衝撃」(「日経」)などの見出しが躍ります。
 「この勝利は、70年代における日本共産党の影響力の飛躍的なたかまりを象徴するものであった」(『日本共産党の70年』上)。
 この直前、堺市区の府議補選で藤田スミが当選。翌74年6月の参院選で橋本敦が地方区で当選し、通常選挙における地方区の議席を初獲得、全国区には小巻敏雄が大阪を地盤にして当選するなど、躍進が続きます。(次回は「労働戦線の攻防」です)

(大阪民主新報、2021年6月20日号より)

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