時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第73話 無党派との共同の広がり

 1990年代前半、国政選挙では激しい「体制選択論」攻撃のなかで、「一進一退」を打ち破れない状況が続きます。90年総選挙では大阪3区で村上弘に代わって菅野悦子、4区では経塚幸夫に代わって吉井英勝が議席を得ますが、当選は5議席にとどまりました。92年参院選では依田きく子が健闘しますが、議席には届かず、93年総選挙では当選が大阪1・2・4・5区の4人にとどまりました。

金権腐敗への怒り、政党の離合集散  

 一方、自民党政治の矛盾と破たんは、新たな段階に踏み込みます。「佐川急便事件」、ゼネコン疑惑など巨額の政界工作費が、自民党幹部、閣僚、野党議員に流れ、自民党副総裁、金丸の自宅からは金の延べ棒が大量に見つかりました。
 金権腐敗への怒りのなか、「宮沢内閣不信任案」をめぐり、自民党から離党したグループが「新党さきがけ」や「新生党」を結成。93年7月には総選挙で大敗した自民党に代わり、「非自民」を標榜した細川政権が生まれます(94年4月に退陣)。その後も次々と「新党」が生まれては消えました。
 このなかで、ブレずに自民党政治の古い枠組みの打破を訴える日本共産党への期待が高まりました。

「半共分子」    

 「共産党さんは太っ腹。『はんきょう分子』の私を招くとは」
96年2月、日本共産党大阪府委員会主催の「躍進のつどい」(大阪城ホール)に出演したジャーナリストの黒田清(元「読売」大阪本社社会部長)が会場を沸かせます。「学生のときからずっと半共、半分共産党だった」「いま一番しっかりしているのは共産党。“半共”から〝全共〟に近づいた」と。
 それは「日本共産党と無党派との共同」の広がりを象徴する一コマでした。
 黒田は「しんぶん赤旗」日曜版に「半共ジャーナル」を連載。98年東大阪市長選、2000年総選挙では生涯で初めて街頭演説にもたちました。癌とたたかうなか、また「ジャーナリストとしての仕事が奪われる」という近しい方からの反対を押し切って、「いまここで悔いを残したくないねん」と気骨ある姿を貫いたものでした。

95年参院選の勝利 

日本共産党府委員会主催の「躍進のつどい」で講演した黒田清さん。沖縄音楽に合わせて踊る一コマも(中央)=96年2月6日、大阪城ホール

 95年7月の参院選は、自社さ3党連立による、村山富市首相(社会党委員長)のもとでのたたかいでした。
 日本共産党は大阪選挙区に35歳、山下芳生を立て、堂々の2位で勝利、「オール与党」に風穴をあけます。全国的にも改選5議席から8議席への躍進でした。
 山下は阪神・淡路大震災で府委員会災害対策本部長として救援活動に全力、作家の小田実らと国の被災者救援制度の抜本的拡充へと奔走してきました。初登院後、参院商工委員会、災害対策特別委員会を担当します。初質問は7月24日、ATC(アジア太平洋トレードセンター)など大阪で破綻する「民活」プロジェクトの転換を橋本龍太郎通産相に迫ったものでした。
 地方政治の分野でも、96年4月の大東市長選挙で保守・無党派とともに推した近藤松次市長の2期目の再選をかちとります。府内各自治体がゼネコン浪費型事業で借金まみれになるなかで、唯一借金を減らす健全財政が光りました。近藤は市長退任後、2001年に日本共産党に入党しました。
 こうしていよいよ90年代後半、日本共産党の新たな躍進の時代を迎えます。(次回は「96年総選挙での躍進」です)

(大阪民主新報、2021年12月26日号より)

 

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