時代をつないで 大阪の日本共産党物語


第74話 96年総選挙の躍進

4割台の得票で8割の議席      

 1994年11月、衆院での「小選挙区制」が強行されました。「4割台の得票で8割の議席を占める」と言われるほど、おびただしい「死票」が生まれ、少数政党が締め出されるしくみ。自民党が戦後一貫して狙ってきたものでしたが、「非自民」の細川政権が、「政治改革」の名で「小選挙区比例代表並立制」法案として出してきました。参院で否決されたにもかかわらず、土井たか子衆院議長の「あっせん」によってよみがえり、細川首相と自民党・河野総裁の密室談合で、「政党助成金制度」とセットで成立させられました。
 総選挙の様相が一変します。党は1994年3月の中央委員会総会で「近畿ブロック」(定数33)に第1次候補として7人(寺前巌、東中光雄、穀田恵二、石井郁子、藤田スミ、辻第一、藤木洋子)を発表します。現職の正森成二は中国ブロック、吉井英勝は九州ブロックの予定候補者となりました。近畿の議席目標を「5」とし、小選挙区では大阪2・5・17区を「必勝区」として位置づけました。
 衆院近畿ブロック事務所びらきが95年5月12日におこなわれます。「近畿7人衆」の連続キャンペーンが張られ、比例候補をメーンにしたシンポジウム・懇談会はのべ68回開かれ、5414人が参加しました。

日本共産党だけがんばっている    

 政治情勢は激動します。沖縄での少女暴行事件を機に、安保条約が大きく問われ、「住専」不良債権処理をめぐる大銀行救済策が国民的批判を呼びました。このなかで細川政権後に登場した村山内閣も96年1月に政権を投げ出し、自社政権の首相となった自民党の橋本龍太郎は就任早々、「日米安保共同宣言」をだし、消費税を3%から5%への増税を強行します。
 大阪の各党をみると、「消費税をぶっとばす」と89年参院選大阪選挙区で社会党からトップ当選した谷畑孝が自民党入りし、社民党は「自滅の道」と嘆き、新進党は創価学会との「政教一致」ぶりを露骨にみせました。こうした政党状況に、自民党参議院議員の谷川秀善が「いま国会でがんばっているのは日本共産党のみなさん。ほかはあきません」と党府議・浅野弘樹らに語る一コマもありました。
 党は、消費税、「行革」、安保・沖縄問題など、論戦でも攻勢的にリードしました。「こんなおもろい選挙はない。自ら声をどんどんあげよう」(黒田清)と無党派も動きました。

国政選挙史上最高の得票数・率で   

日本共産党が躍進した96年の総選挙で全員当選を果たし万歳する「近畿7人衆」=96年10月21日、大阪市天王寺区内

 10月20日の投票日。寺前が京都3区で当選し、近畿比例は6議席分を確保。最初の「7人衆」が全員議席をえました。全国的には改選前の15から26議席へと前進します。得票を483万票から726万票(比例代表)へ、得票率13・08%は、70年代をうわまわる国政選挙史上最高の達成でした。
 「『離合集散』『公約ひょう変』への嫌気が無党派を巻き込んだ『革新の風』を吹かせた」(「毎日」)、「共産党が比例区を中心に議席を伸ばしたのは、ただ一つ、『迎合しない党』を守ったからだろう」(「朝日」)――開票翌日のメディアは伝えました。
 自民党は、2299万票(36・6%)から、1820万票(32・8%)に得票を後退させ、小選挙区制に助けられながらも、議席数では過半数を大きく割りこみ、239議席にとどまりました。社民党(96年1月に社会党から党名変更)は15議席に激減しました。(次回は「大正区、定数1の府議補選勝利」)

(大阪民主新報、2022年1月2日・9日合併号より)

 

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