時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第89話 維新の会の出現

「大阪都構想」  

 大阪府知事の橋下徹が「大阪都構想」を公式の場で口にしたのは2010年1月12日の記者会見でした。
 公明党府本部の賀詞会で、「大阪市との関係について、もう一回両方とも壊してガラガラポンに」とあいさつした真意を問われてのもの。しかし、その説明は、「大阪都であろうが、スーパー政令市であろうが…何でもいいと僕は思っているんですけどね」というものでした。「競争力のある広域行政体を大阪府のエリアで考えるのか、それとも大阪市をもうちょっとエリアを広げるように考えるのか。これはどちらでも」と。
 「大阪市つぶし」の「都構想」へと明確に傾斜する過程は、これを旗印とする「大阪維新の会」結成への足取りと一体でした。

大阪維新の会の発足式であいさつする橋下徹=2010年4月19日、大阪市北区内

 4月19日、橋下が代表の地域政党「大阪維新の会」が発足します。「綱領」には、「新たな統治機構(大阪府とグレーター大阪・大阪市と隣接周辺市の一体化が中心)の構築」などが明記されます。構成員は前年9月に「自民党・維新の会」を結成していたメンバーが中心で、幹事長に松井一郎がつきます。
 日本共産党大阪府委員会の柳利昭書記長は、党籍は自民党においたままの「大阪維新の会」結成に、「古い自民党政治を転換する立場は見られない」とコメントをだしました。「維新の会」の「目新しさ」は、大阪の停滞の理由を「府と大阪市の二重行政のせい」とし、「ワン大阪」にすればうまくいくと、日本共産党を除く「オール与党」がのめりこんだ「関空・ベイエリア開発路線」の破綻の責任と要因をすべてあいまいにすることでした。

府議会過半数 

 「大阪維新の会」として初めて臨んだ11年4月の統一地方選挙。メディアは「地域政党対既成政党」などと対立構図を描き出し、「都構想」をかかげた維新への幻想をあおります。維新は府議会で過半数を占め、大阪市議会、堺市議会とも第一党に進出します。
 日本共産党は、府議選は10から4、大阪市議選は16から8へと後退。堺市議選は8議席を維持しました。党府常任委員会はこの結果についての自己検討を行い、問題点と対策を明確にすることをのべるとともに、「『政治を変えたい』という府民の思いと『大阪都構想』の政治の中身には大きな矛盾があり、大阪の地方政治をめぐる新たなたたかいが始まります」と声明をだしました。

「政治に必要なのは独裁」      

 統一地方選後、「維新の会」の暴走は、異様なまでに加速します。
 6月には「身を切る改革」などと称し、府議会定数を112から88へと大幅に削減。1人区が多数となり府民の民意が切り捨てられる案を一気に強行します。また「国旗国歌条例」を成立させ、入学式や卒業式での教員の起立と斉唱を厳格化。このもとで橋下の大学時代の盟友で和泉高校の民間人校長になった中原徹が「口元チェック」をおこない、歌っていなかった教員の処分を検討するという事態も生まれました。
 6月29日夜、大阪市内のホテルで政治資金パーティーを開いた橋下は、「今の日本の政治で一番重要なのは独裁。独裁と言われるぐらいの力だ」とまで叫びます。
 橋下は秋に知事を辞職して大阪市長選挙に出馬し、知事・市長ダブル選挙で「都構想」を問う構えを見せており、このパーティーで「大阪市が持っている権限、力、お金をむしり取る」とも叫びました。(次回は「東日本大震災」です)

(大阪民主新報、2022年4月24日号より)

 

コンテンツ